Home

紙芝居―街頭のメディア

 

プロローグ

 

新語ジャパニメーションとの出会い

 私は一九九六年から二年間、アメリカに滞在した。最初の頃はアメリカ三大ネットワークのテレビやCNNのニュースには、ダウとともに日経の平均株価が毎日放送されていたが、一年間もたった頃にはそれらのメディアは、日本の株式市場に目をくれなくなった。そうして、出てくる日本のニュースといえば、銀行、メーカーなど日本の代表的企業経営危機やGNPの低落といった悪いニュースのみである。それに追い打ちをかけるように、アジアの経済危機に関するニュースの洪水。一方、アメリカの株価やGNPは上昇を続けていた。そうしたニュースに接して暗くなる私を慰めてくれるのは、日本のアニメーションの健闘であった。アメリカケーブルのマンガ専門チャンネルにも、ゲームセンターにも日本製が割拠していた。デンタルビデオ店にも、そして古本屋にもかなり大きなスペースをとっていた。そしてそこにはJapananimation を合せたJapanimationという複製語が使われていた。

 アメリカのジャーナリズムは日米の経済を比較した際、情報技術とくにソフト開発の差異を指摘した。日本のNECや東芝などのパソコンはアメリカでもかなりのシェアを占めていたが、そこで使われているソフトはほとんどがマイクロソフトなどアメリカ製であった。模倣には長けているが、創造性に欠ける日本企業。そこに日本経済の敗因があると論じられると、どの日本人だって抗弁しようがない。ところがアニメーションという特殊な分野とはいえ、日本のソフトがテレビ、映画やゲームに闊歩している。それに誇りを求めたくなるのは当然であろう。

 帰国後も、ジャパニメーションは健闘しているらしい。最近の日本の新聞にも、「もののけ姫」や「ポケモン」が視聴率や観客動員数でディズニーのシェアを大きく食っているとのこと。ソフトつまりコンテンツの優劣が今後の情報、通信産業の運命を決めるともいわれている昨今、バブル崩壊の後遺症を克服できない日本経済にとって、明るいニュースではなかろうか。

      

 欧米にないメディアー紙芝居

私がアメリカでジャパニメーションということばに強く惹きつけられたのは、アメリカが日本占領当初から紙芝居の存在に驚いて、それをカミシバイKamisibaiと呼んでいたことを連想したからである。

 アメリカ政府は太平洋戦争での勝利を想定し、開戦後まもない時期から、日本占領後の基本政策を検討していた。日本の非軍国主義化、民主化が眼目であった。天皇制や憲法がGHQ(占領軍総司令部)の最重要課題であった。そしてマスコミやミニコミの統制、改革もその視野に入ってきた。アメリカは日本のメディアの種類や構造についての文献や情報を入手し、専門家に分析をさせていた。またアメカ人に日本語教育を施して、メディア統制、検閲に備えていた。さらに戦局がアメリカに有利に展開するにつれ、日系人や日本兵捕虜から、最新の情報を獲得する努力を行った。

 アメリカは日本をメディア先進国とみなし、アメリカの国内の戦時下でのメディア統制の大枠が、そのまま日本に適用できると考えた。そしてフィリピンでの日本軍駆逐作戦の過程で実践したGー2(参謀第二部)所属のCCD(民間検閲部)よる郵便、電報電話、旅行者携行品などの検閲を、日本占領直後から開始した。そして九月三日

からはCCDが管轄外であったプレス(新聞、通信、出版)、ラジオ、映像(映画、演劇、幻灯)の検閲も引き受けることになり、PPBを設置した。日本のポツダム宣言が予想より早くなったため、占領直後、この検閲やメディア指導などでは若干とまどいを見せたが、今までの情報蓄積や分析結果が予想外の事態に対応できる資産となっていた。プレス・コードやラジオ・コードなども九月中に矢継ぎ早に出した。泥縄式に見えたそのメディア基本政策のコードを占領終了まで改訂することはなかった。メディアに対応する検閲、指導体制の基本軸にも手がつけられなかったのは、戦勝を予想して戦時中から準備していた日本メディア分析のたまものだった。

 ところが四五年十一月十五日にPPBの映像部門に紙芝居担当係が新設された。

 この新設はPPB(プレス・映画・放送課)の歴史でも異例のことであった。予想もしなかった人気メディアの存在が、かなり周到に準備していたメディア統制の枠に見直しを迫ったわけである。それは基本枠を壊すものではなかったものの、勝利後わずか三か月のことだったので、GHQ側の困惑ぶりは小さくなかった。「ピクトリアル課は枝分かれして、新しい係 ー 紙芝居係を追加した。この新設で翻訳担当者が増え、全く別の問題もおきる」(CISー771)と担当者は記述している。

 GHQは主要なメディアに占領一か月後に発行禁止、活動停止など重い処分を行った。各メディア独自の戦争責任追及に声援を送った。また十月八日からは、東京の有力日刊紙に事前検閲制を敷いた。このような手早い対応は、事前の分析が的はずれでなく、準備も十分であったことを示す。逆に紙芝居へのあわてふためきようは、その知識や分析が皆無に近かったことを示唆している。  

 紙芝居の記述がGHQ資料に最初に登場したのは、管見では、紙芝居係新設直前の四五年十一月九日である。その前日の十一月八日、映像課のソーズ大尉は佐木秋夫日本教育紙芝居連盟代表などと会い、紙芝居の業界規模の情報や規制の方法を探ろうとした。PPB責任者への報告で、紙芝居担当は紙芝居とは何かについての説明を試みた。

   紙芝居はタテ十八インチ、ヨコ二フィートの大きさのプラカードに描い 

  たもので構成されている。紙の表側に絵が描かれ、裏側に会話や説明文が 

  書いてある。二十枚から三十枚のプラカードで一つの劇を完成させている。

  旅芸人のような男は材料いっぱいつめたトランクを運び、小さな村や大き 

  な町にスタンドをつくって一つの劇を演じている。観客の大部分は子ども  

  で、芝居を見た後に金を払う。

 こんな解説ぐらいで紙芝居がわかるアメリカ人は少なかったろう。だがかれらが日本の都市に一歩足を運べば、すぐ紙芝居なるものにぶつかり、そのメディアの異常な人気ぶりに驚かされた。子どもにアメを売り、自転車の横に立って、ジェスチャーたっぷりに何やら説明している紙芝居屋、そして自転車の前に密集し、アメをなめつつ熱心に視聴する子どもとが醸し出すオーラは、その背後の焼け野原とともに見物したアメリカ人に深く印象づけたことだろう。

 「日本の紙芝居の人気ぶりを見れば、検閲の対象となる」と、先の報告の作成者は紙芝居取締りの重要性を上司に懸命に訴えた。日本の民主化、非軍国主義化に熱心だった占領当初のGHQ関係者は、この人気にとまどいを見せると同時に、その取締りに躍起とならざるをえなかった。紙芝居の日本語がわからなくても、その絵が軍国主義や封建主義を賛美したものであることは一目瞭然であった。こうしてCCDの幹部の了解をえて、紙芝居係がPPBに新設されることとなった。

 占領当初からGHQ資料のなかで、紙芝居はローマ字で表記されていた。歌舞伎や神楽など日本の伝統芸能もローマ字で表記されていたが、その頻出度は低い。紙芝居も他のメディアのようにペーパー・シアターとかペーパー・ショーのように英訳されることはあったが、それはごくまれであった。

 紙芝居がGHQのメディア部門にとって、無視できないメディアであったことは、その関連資料が占領終了までとぎれなく頻出することから推測される。紙芝居はアメリカにもその他の国にも見あたらない日本独自のメディアであり、しかも影響力の大きなメディアであったため、日本語のローマ字表記がなされたのである。もちろん、それにあたる英語がなかったこともあった。GHQの紙芝居にたいするとまどいぶりは、占領当初の文献の多くが、まず“紙芝居とは何か”という説明からはじまることからもわかる。

 

 カミシバイは“世界語”か

 GHQはアメリカにない紙芝居の存在に驚き、占領政策、とくに検閲のために膨大な紙芝居資料を残した。当初は“ペーパー・シアター”ということばを使っていたが、数ヶ月をしてローマ字でカミシバイとして表現するようになり、それを上演終了時まで続いた。一九五〇年六月一日日刊の『紙芝居』第八号で、業界幹部の青木緑園は「世界語“カミシバイ”」と豪語している(「もぐり問題に関する東京紙芝居審査委員会白書」)。“世界語”はともかくとして紙芝居というメディアは日本でしかなかったこと、そしてGHQはその内容や活動を“カミシバイ”としてしか表現できなかったことがわかる。歌舞伎や神楽なども、検閲当局の対象であり。それらのことばもローマ字で表現されていた。世界的に評価の高い歌舞伎と同じくローマ字で表現される点で、紙芝居は以て瞑すべきであろうか。いや紙芝居も独自の芸術的、技術的価値があったのであろうか。

 

 ニューメディアとしての街頭紙芝居

 

 通説の紹介

 GHQは佐木秋夫や加太こうじなど業界リーダーからのヒアリングや検閲を通じて、“紙芝居とは何か”についての概要を少しづつ把握しはじめた。貸元による作家、画家への手描きの作品の発注、貸元ー支部ー紙芝居屋という業界システム、紙芝居屋=アメ売人という構造などがおぼろげながらわかってきた。さらにはこの手描き紙芝居=街頭紙芝居システム、構造とはまったく異質の印刷紙芝居あるいは教育紙芝居というものが存在することにも気づいた。後者の方は街頭には見かけなかったが、百貨店、書店などにかなり大量に販売されているので、その流通システムは一九四六年三月頃には掌握できた。書籍に似た大量販売を志向し、職場、学校、家庭で、主としてアマの指導者、教師、親などによって実演される印刷紙芝居は、アメリカの書籍の流通システムに近似しているので比較的理解しやすかった。

 一口に紙芝居といっても、街頭紙芝居と教育紙芝居とはそのシステムはまったく異なっている。とくに進駐まもなく出くわした街頭紙芝居のシステムへの理解が難しく、したがってそれへの関心が当時のGHQ側ではことのほか強かった。

 紙芝居のように文献が少なく、歴史が浅い割にはシステムの複雑なメディアの把握には、歴史から学ぶ姿勢が不可欠と感じたのであろう。他のメディアのょうな戦争責任の所在を把握するよりも、“紙芝居とは何か”を歴史的に学ぼうと努めた。したがってGHQ資料には、紙芝居の説明と並んで、その歴史が短いながらも、必ずといってよいほどあらわれている。

 しかしながら紙芝居の起源から昭和初期までの歴史については、GHQ文献は詳しくない。写絵という現在のスライドに似たものがその起源で、亀屋都楽が一八〇一年に外国の幻灯から学んだとの通説が紹介される(内山憲尚『紙芝居精義』)。また現在紙芝居の元祖ともいえる立絵は、円朝の弟子の通称新さんが紙に描いて、切りとった人形を一八九七年に前座で演じたのが最初とされる。さらにからくり師の丸山善太郎が新さんと工夫して立絵の芝居を祭りの小テント小屋で演じて子どもに喜ばれ、一九一二年ころには演芸者は五〇人ほどを数えるようになった。立絵は次第に小屋から街頭に進出してきたが、警察の道路規制や検閲、さらには駄菓子屋の反対で衰退していった。

 一九二七年あたりからきびしい不況となって、立絵は街頭から姿を消した。 

 そのころ、禅僧の西村上人が“絵話”という説教の方法を工夫して、子どもたちに現在の紙芝居の形である一連の絵をつかった説教をはじめた。失業中の立絵の演芸者が書店から絵本を買い、西村と同じ方法で紙芝居を描き、アメを売りながら説明するという仕事をはじめた。こうして街頭紙芝居が誕生する。

 GHQは通説以上の分析をしていない。通説は佐木、加太からのヒアリングや今井よねや内山などの著作や東京市役所の「紙芝居に関する調査」(一九三五年)などに依拠している。学説うんぬんと論議するほどの文献は、紙芝居の世界ではきわめて限られていた。限定されたソースから歴史を掘り起こすことは困難であったし、GHQそのものは研究活動を目的としていなかった。

 

 新聞、雑誌の普及

 明治維新期に誕生した新聞、雑誌は有史以来のニューメディアであったが、その後五〇年を経た一九二〇年代には業界地図が固まってきた。経営が安定した大阪系紙の『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』と『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』は全国紙へとつき進んでいた。東京紙では関東大震災で社屋の焼失をまぬかれた『報知新聞』、『都新聞』が健闘していたが、他紙は衰退の道を歩んでいた。『読売新聞』は正力松太郎に買収され、大衆的報道新聞として再建途上にあった。一九二三年の東京でも、大阪でも、日雇労働者のなかで、リテラシーをもたない者は八%前後にすぎなかった(山本武利『近代日本の新聞読者層』)。その後の所得の上昇で新聞は都会の底辺労働者の家庭にも浸透しだした。

 東京では『東京毎夕』という夕刊紙がこの期に本所、深川、浅草、江戸川など東京下町の労働者、職人、中小商人など今まで新聞に接することの少なかった階層に読者を開拓していた。同紙はアメリカのイエロー・ジャーナリズムの手法で、労働で疲れた職工読者をいやすくだけた社会面を売り物にしていた。第一次大戦期に浅草に住み、小学低学年であった人は、「当時、家で取っていたのはたしか読売と毎夕新聞で、以前は萬朝報か報知で あったようだが、この頃は前記の物となっていた。毎夕は夕刊だけの新聞で薄赤い用紙に刷ってあった。読売は朝だから学校から帰ってから読む。毎夕には佐藤紅緑の小説が連載されていた。これが面白い。何となく分って面白い。毎晩々々待ち遠しくて、配達の時間になると軒先で待っていて誰よりも先に受け取って店の中に座って読む。毎晩の繰返しである。小説の内容は全く忘れたが、佐藤愛子さんの事が何かに出るとすぐ連想してこの事を思い出すのである。 西三筋町の田中の叔母さんの所では都新聞しかとっていない。何やら芸者さんの噂とか芝居寄席活動写真の案内のような物が載っていて、何となくバカにしたものだ。子供心にもあまり上品な新聞とは思えなかったのだろう」。(寺村紘二『子供大正世相誌』)と回想している。この小学低学年生は総ルビだったので、両紙とくに『東京毎夕』を愛読できたという。

 また同紙は一九二四年から宮尾しげをの「団子串助漫遊記」というマンガを連載した。これは「落語や小噺 を素材にした日本的な情緒のただよわせたなかで、しゃれで難問を解決していくといったセンスにちょっとした笑いがあった」(石子順『日本漫画史』上巻)という。『朝日新聞』では一九二三年から「正チャンの」冒険」で人気をえた。紙芝居の誕生した一九三〇年代には、『毎夕』に代表される低価格の新聞を購読する東京下町の家庭に子どものマンガ読者が少数ながら出現していた。

  一方、出版界では、講談社が一九一四年に『少年クラブ』、一九二三年に『少女クラブ』、そして一九二六年に『幼年クラブ』を創刊して、幼稚園生から小,中学年の男女読者を図っていた。これらの雑誌は子どもむけのマンガを掲載した。またその人気マンガを単行本化した。しかしこれらの出版物は山手や地方の中産階級以上の家庭の子女に愛読された。下町の労働者、職人の子どもは、せいぜい新聞の連載マンガにたまに目をやる程度であった。

 

 映画の誕生

 明治末期から昭和初期にかけて、その後のマスメディア史上に大きな位置を占めるメディアがいくつか出現した。しかもこれらは技術的には活字メディアとは根本的に異なるニューメディアそのものであった。

 当初活動写真といわれた映画は一八九六年にアメリカから輸入され、神戸で公開されたので、厳密にはこの期に誕生したメディアではない。しかし日本最初の本格的な映画製作の会社となった日活が創立されたのは、一九一二年である。話題作は輸入映画の方が多かったとはいえ、日本映画の人気は急速に高まった。一九二五年以降、邦画が洋画の本数を上まわった。一九二〇年に松竹は松竹キネマを設立し、映画製作を本格化させた。“目玉の松ちゃん”という愛称の尾上(おのえ)松之助や“阪妻(ばんつま)”といわれた阪妻三郎など人気俳優が登場した。一九二九年には、最初のトーキー映画が封切られた。

 無声時代の映画は活動弁士(活弁)という説明者を登場させ、観客へのサービスに努めた。しかし芸術性・社会性が弱く、インテリや年長者には人気が広がらなかった。また大正初期にヒットしたフランスの犯罪映画「ジゴマ」をまねた少年犯罪の増加などが、一九一七年の「興行用フィルムを甲乙二種に分かち、甲種フィルムは十五歳未満の児童の観覧を禁ずる」といった警視庁の取締規則制定を促した(田中純一郎『日本映画発達史』)。

ところが、東京の下町では、大正期から一部の子どもは映画を見に行っていた。墨田区編『すみだ区民が語る昭和生活史』上巻(一九九一年)には、つぎのような回顧談が出ている。

  物心がついてからの楽しみっていうのはやっぱり映画だったね。映画の全盛

 時代だった。浅草にもたまには親に連れてってもらったけど、向島にも映画館

 はいくつもあって、浅草に出なくても結構楽しめたの。いろは通りに玉の井館

 があって、今のガード下の肉屋のところに東宝劇場。いろは通りを突き抜けて

 堤通りへ出て、今は防災拠点になっちゃってるけど、あの道をくぐり抜けると、

 左側に向島館ていう映画館があって、そこの映画館にはよく行ったね。五銭も

 っていくと、二銭ぐらいでくずせんべい買ってね、入場料が三銭。(墨田五

 丁目川瀬俊朗六四歳)

   映画も好きでした。子守りをしながら、ミルクビンを持って赤ちゃんに飲ま

 せながら見に行きました。寺島館とか南竜館、東成館というのがあったんで

 す。南竜館というのは、講談師の田辺南竜という人が建てた映画館だそうです。

  画もやっていて、シャーリー・テンプルという人気スターがいたり、「庭

 の千 草」とかをやっていました。東成館は洋画専門でした。洋画のことを、

 当時は西洋劇と言っていました。日本の物も好きですが、どちらかというと洋

 画の方が好きでした。洋画は最後まで結末がわからないから面白いのですが、

 日本の映画は、悪い奴は終いにはやられるんだというのが分かりますからね。

 (東向島二丁目太田静江六四歳)

  親と一緒に映画館に行く者もいたが、多くは子どもだけで映画を楽しんでい

 たことがわかる。警視庁の取締はさほど強くなかったようである。

 一九二二年の調査では、大阪の年間映画鑑賞人口は延べ六六五万人を数え、芝居人口や、寄席人口をそれぞれ三倍も上まわっている。休日に映画館をスシ詰めにする労働者を中心に、映画人口は着実に増加していた。一九二一年の文部省の全国都会娯楽愛好調査によると、一番好きなものは、映画三三・一%、芝居二三・一%、浪花節(なにわぶし)一六・四%となっていて、映画人口は都会に広く浸透していたことがわかる。しかし全国の農村に映画人口が増加するのは、一九三〇年代のトーキー時代からである。一九二一年の文部省の全国農村娯楽愛好調査では、第一位の角力(すもう)二四・一%、第二位芝居二一・七%などに大きく引き離されて映画は第六位の三・八%の人気しかなかった。ところが、一九三三年の農村地帯の娯楽調査では、岩手、茨城、岐阜、岡山、熊本など全国的に映画が第一位を占め、盆踊り、村芝居などを上まわる人気をえている。この映画人気は年々高まり、子どもの観客も全国的に増加したと思われる。

 

 ラジオの誕生

 一九二五年に放送したラジオは、この期の正真正銘のニューメディアであった。アメリカに五年遅れと、欧米に比べわりあい早く開局したのは、関東大震災にみられた報道不足や情報混乱によるパニック状況をラジオの放送で回避しようとする政府の意向が働いたからだ。そして社団法人日本放送協会(NHK)は政府の上意下達のための忠実なメディアとして活動することとなった。先にあげた大阪の近郊農村調査では、一九三四年のラジオの普及率は六%にすぎなかった。一九三六年にはNHKとの契約台数が全国で二〇〇万を突破したが、その伸び率は高くなかった。ラジオ受信機がかなり高価であったことが最大のネックであった。それとともに無視できないのは、番組内容が硬く、報道・教育に傾き、娯楽が少なかったことである。 ラジオは映画ほどは子どもに人気がなかった。それでも親や祖父母が聴く娯楽番組に接することもあった。

  子供の頃、夜店やお祭りに、おこづかいをもらって行くのが楽しみでしたね。

 本も好きでしたので子守りをしながらよく読んでいました。浪花節などもラジ

 オでよく聞きました。落語や講談は今でも好きで時々聞きます。おじいちゃん 

 が好きで聞いていて、そばで私もそれを聞いていて好きになったんですんね。

 今のように子供の方が思い通りにチャンネルを回せるのとは違って、親が聞て

 いる番組をそのまま聞いているというのが、その頃はあたりまえでしたから。(東向島二丁目太田静江六四歳)

 NHK自身は聴取者に歌謡曲・民謡・演芸など娯楽番組への関心が高いことを知っていながら、政府の意向を対して硬い番組を流していた。

 開局時、新聞界ではラジオは映画以上のライバルと受けとられた。各紙はラジオへのニュース提供を順番に受けもってはいたが、すでに自紙に出した陳腐なニュースしか与えなかった。さらにNHK自身が取材記者をもたなかったので、報道番組は生彩を欠き、聴取者の関心をひきつけなかった。ところが、『読売新聞』は正力のアイディアでラジオ欄を拡充させ、積極的にラジオ記事を掲載しはじめた。これは読者の好評を博し、同紙の部数増加に寄与した。そこで各紙は同紙に追随するかのように、ラジオ欄を拡充し、ラジオ界の動きも紙上に登場させるようになった。また『東京毎夕』は『ラヂオ新聞』を昭和初期に創刊する他、ラジオ欄の充実にも力を入れた。しかしラジオ人気が本格化し、普及率が高まるのは、戦局が深刻化し、戦況報道への関心が増した一九四〇年代であった。それまでは、ラジオは所得の高い一部の上層向けのメディアでしかなかった。

 

 「黄金バット」の出現

 映画・ラジオが欧米で開発されたものであるのにたいし、紙芝居は日本の土壌で誕生したユニークなニューメディアであった。のぞきからくり、写し絵や紙人形の立絵(たちえ)などを源流とする紙芝居は一九二〇年代後半に登場してから、またたくまに全国の子どもを捉える異常ともいえる人気を博した。とくに一九三〇年に制作された「黄金バット」は映画的な大胆な構図と展開で大ヒットとなった。 

 「黄金バット」は鈴木一郎作、永松武雄絵で、蟻友会という貸元で制作された。これは怪盗バットが悪の権化ナゾーを打倒する勧善懲悪の奇想天外の連続ドラマであった。永松の回想によれば、「封切った日の人気はすばらしかった。蟻友会所属の売人の売上は五倍にはねあがり、他会所属の売人のしょばを席捲していった」という。翌年の一九三一年初夏、鈴木、永松のコンビは同会を脱退し、話の日本社を設立し、「黄金バット」も同社で制作された。これとともに画面のサイズがハガキ大から中版(B5版に近いもの)に大型化し、子どもの興味を一層そそった。「黄金バット」は一九三一〜三年、続編が毎日のように街頭で封切られた。

「黄金バット」は活劇といわれるジャンルに属し、男子に人気があった。「黄金バット」の人気にカゲリが見出てきた一九三三年には、そうじ映画社の山川そうじの「少年タイガー」が街頭紙芝居人気を引きついだ。一方、女子は紅涙をしぽる新派悲劇の作品を好んだ。また漫画作品は男女を問わずあらゆる年齢の子どもに歓迎された。

 

 紙芝居屋のおじさん

 東京市役所の一九三五年の調査によると、紙芝居屋の前職は表1のようになる(『紙芝居精義』)。

 

  表1 昭和初期の紙芝居屋の前職

  

  商業   一五八       工業   一三四

  接客業   三六       会社員   三〇

  農業    二七       官公史   二六

  職工    二五       無職    二六

  店員    二〇       映画説明者 一〇 

  不明    二〇       その他   五三

                 計    五六五

 

 誕生期の紙芝居屋は、多様な職種の失業者のるつぼであったことがわかる。トーキーで追われた映画説明者は、この時期になると少なくなっていた。商業のなかに入るテキ屋の露天商人や立絵の業者も減っていた。しかし戦後の紙芝居屋に比べると、弁説、口説で子どもの心をつかむ話術に秀でる“プロ”が多かった。かれらは人気作品の続き物を説明しているうちに、子どもと心理的に一体化し、“紙芝居のおじさん”といわれるようになった。

    私が小学校へ入る頃、無声映画に代わって音入りの映画が登場し、映画の

 看板には題名に添えて“オールトーキー”と書いてあった。トーキー時代が来

 ると無声映画の弁士、いわゆる活弁は失職、転職を余儀なくされたが、このこ

 ろの紙芝居のおじさんには弁士から転職した“優秀”な人もいた。私の住んで

 いた裏町には日に何人かの紙芝居が来たが、その中の三人は何年間も変らずに

 我々の人気者だった。彼らは生活のために働いているといった素振りは全くな

 く、子供たちを前に“演技”を楽しんでいる風情だったが、その中の一人はと

 くに人気があって、いつも子供を抱いたおかみさんが二、三人は見ていた。『黄

 金バット』『少年タイガー』などがロングラン?で、少年たちの人気を独占し

 ていた。最近のテレビで『黄金バット』を見たが、その高笑いは四十年前の紙

 芝居のおじさんの黄金パットの笑い方とそっくりだった。おじさんの解説と演

 技のほかは、鉦と太鼓が合いの手に入るだけだった。そのうち、人気者のおじ

 さんは自転車に蓄音機を積んできて、クライマックスになると活劇にはマーチ、

 メロドラマにはセレナードを聞かせた。我々は一幕に十枚ほどの静止した画を

 見せられただけなのに、若干の“音”とおじさんの熱演で、結構満足したもの

 だった。車の心配もなく、おじさんの声をさえぎる騒音もない裏通りに、仲間

 と鈴なりになって眺めた画面は、テレビの変身ものよりも躍動していたように

 思えてならない。(森川直司『昭和下町人情風景』一九九一)

  紙芝居はみんな続きもんがあるから行きましたよ。よく一銭持っちゃ、あめ

 買ってね。“孫悟空”もあったし、継母にいじめられるとかさ。“一寸法師”

 もう楽しみでね。三時ごろ、学校から帰る時分になると、紙芝居が来んですよ。

 そうすると子どもが集まってくる(江東区編『古老が語る江東区の町並みと

 人々の暮らし』上巻一九八七年収録の広井ときの談話)

 一九三六年夏の東京の男一〇七〇人、女五〇〇人の子どもを対象にした調査よれば、一日平均男一・六回、女一・五回となり、一日二回見ると答えた者は男三三三人・女三四人、三回見ると答えた者は男一三八人・女五三人に上っている。そのほかには一日六回も見る者が男五人・女一人いる。またかれらに初めて紙芝居を見た年齢をたずねると、四歳が男七六人・女一二人、五歳が男一七四人・女六一人、六歳が男二一三人・女七九人、七歳が男二二八人・女一〇四人、八歳が男一七七人・女八九人となっており、七歳が一番多い。さらにかれらに紙芝居と映画のどちらを好むかと聞いたところ、男では映画を好む者が圧倒的に多いのに対し、女では両者にあまり差が見られない(『紙芝居精義』)。しかし映画好きの子どもも、紙芝居そのものに魅力ある作品が多かったので、一日に何回も紙芝居のおじさんと追いかけていた。親の財布のヒモが緩んでくると、映画に走る子どもも増加したが、紙芝居自体の観客が減ることはなかった。

 最盛期には東京だけで、二〇〇〇ー三〇〇〇人の紙芝居屋がいて、一日に一〇〇万人を超える子どもを集めていたといわれる。紙芝居屋が一回で数十人の子どもに口頭で説明するこの紙芝居は、ミニコミといってもよいメディアであったが、その集める人口を総計すると巨大になったため、マスメディアとしての要件を備えることになった。とくにマスメディアへの接触を低年齢化させた点で、紙芝居の寄与は大きかった。就学前の児童が最初に接するマスメディアはこの紙芝居であった。

 

きびしい子どもの反応

 幼稚園や小学低学年だからといって、観客を見くびるわけにはいかなかった。「紙芝居屋さんの座談会」(雑誌『現代』一九三六年四月号)で、同一の紙芝居をくり返し使うかとの質問が出た。

   下田 とんでもないことで…東京では決して同じものを二度は演れません。

  三年経つても四年経っても駄目、とてもよく覚えて居ります。前によく受け

  た狂言があつて、これを又持つて行くと、をぢさんそれ三年前に演つたよ…

  三輪 子供と云ふものは実に偉い。この間も建国祭の日私共が行列を作つて千

  人も通つてゐるのを、それを子供は大抵顔を知つている。何処かで少年団の

  行列と並んだ、すると黄金バットのをぢさん、何んのおぢさんと能く知つて

  ゐて呼びかける。紙芝居の外題なんです…

  山川 私は少年タイガーといふのを原作して自分で絵を書いて居りますが、こ

  れが受けて五百八十巻、連続物で何年間に亘つて居ります。この位続いて居

  りますと二三年前に受けたところの筋を持つて来て蒸返して書いてみるとも

  う駄目です。子供は覚えて居ります。だから五百八十巻のものを始終筋を変

  へて作らねばならぬ。原作者はとても苦労しますよ。

  子どもはなけなしの金をはたいて見た紙芝居の内容やタイトルをよく記憶し

ていたことがわかる。そして紙芝居屋の下手な演技には、「おじさんはさっきのおじさんより下手糞だ。おじさんは新米かい」と手きびしい批判が出たという。

  町には、紙芝居のおじさんが毎日三人くらい来た(中略)子供が大勢集まっ

 てコブやアメが沢山売れるとおじさんも気を入れて熱演して行くが、集まりが

 悪く売れない時は気を抜いてしまうのが、子供心にも分かった。太鼓のおじさ

 んなど、極端に子供が少ない時などは一言言っては一枚めくり、一言言っては

 一枚めくりで、バタバタとあっと言う間に演じて行ってしまった。たまには、

 同じ時間に重なって来てしまって、紙芝居のおじさん同士が小競り合いを

 めることもあった。(青木正美『東京下町覚え書き昭和の子ども遊びと暮ら

 し』一九九〇)

大人の手抜きにも抜かりない目が注がれていたことがわかる。その日の演技の良否が翌日の動員数を左右したといってもよかった。

 

製菓資本の進出

 一九三六年の紙芝居の文献では、「一口に紙芝居とは云うが、実は飴を売るのが本職なので、紙芝居をするのは客寄せ」(直原豊四郎『国家的立場から紙芝居運動の提唱』)とある。紙芝居屋は業界では「バイニン」とか売子と呼ばれていた。全国で一日数百万人の子どもが観客となると同時に、アメ、菓子の消費者となるメディアに大手の製菓会社が注目するのは当然であろう。そこで消費される菓子は、紙芝居専門のアメ製造の弱小企業の安価、低品質の製品であったため、大手製菓資本自体は直接的な消費市場とは見なしていなかった。しかし紙芝居の画面に企業名が記載されたり、それが紙芝居屋を通じて肉声で子どもに伝達されれば、絶好の商品宣伝の場となった。子どもたちが、家に帰ってから、駄菓子屋でその企業の商品を買う宣伝メディアとなるからである。

 大日本画劇株式会社は一九三七年に設立された資本金三十万円(払込資本金二十万円)の業界最初の株式会社である。軍需産業で成金となった浜野一郎を資金源に、街頭紙芝居の全国支配をねらって設立された。同社は池田守雄の話の日本社、田辺正雄の新一新興画劇社、山川惣治のそうじ映画社、大塚辰次郎の愛国社など東京の街頭紙芝居の有力貸元の大半の一六社を最高一万二千円、最低三百円で買収し、株主や幹部に登用した。

 また大日本画劇の設立目論見書によれば、「東京市のみにて二千人の業者が一日百万人の児童及大衆に接触する宣伝的効果は絶大なるものあるを以て、会社、商店等の依頼に応じ、東京市其他主要都市及全国的に之れを引受く。尚官公署及公共団体に対しては協力す」とある。これは紙芝居を使って、企業の商業宣伝を行い、さらに政府の政治宣伝の扱いもねらっている文章である。つまり同社は、最初から印刷紙芝居業界への進出を想定していたと推測される。また帝国インキとの提携に見られるように、このころから国策に依拠した翼賛物の印刷紙芝居に進出したらしい。さらにGHQ資料で興味深いのは、明治製菓が設立当初、同社に多額の出資をしていることである。明治製菓の出資は紙芝居屋を通じたアメの売り上げ拡大をねらったものか、宣伝費の一部として考えたものかわからない。同社には白木屋、グリコも資本参加したとの説もある。永松によれば、「資金の大半は明治製菓の出資で、あと白木屋、グリコ等の資本が入っていた。明治製菓としては、紙芝居屋への投資は宣伝費のつもりだったかも知れないが、業界ではとにもかくにも、会社と名乗るものが出来た事も一大画期的事件であった」(『紙芝居』一九四八年五月号)

 明治製菓のライバルであった森永製菓が大日本画劇と松竹とタイアップして、「広告紙芝居」の製作を企画したが、世論の反対で中止になったらしい(雑誌『紙芝居』一九四八年一〇月号)。また一九三八年五月の警視庁の検閲統計では、大日本画劇や平和会、神国会などと並んで、森永製菓の名が出ている(表2)。その制作本数は少なかったが、大手資本の紙芝居貸元への直接的な進出して注目される。

 

                 表2

警視庁の取締

 一九四二年一二月二日、街頭紙芝居業者が政友会代議士安藤正純を会長に仕立てた日本画劇協会を設立した。その協会会則第四条には、「本会ハ紙芝居業者ノ素質ヲ改善向上シ、児童教育及社会教化運動ノ補助機関タラシムルト共ニ、期業ノ社会的地位ノ確立ト本協会ノ公認トシ、更ニ営業上諸般ノ改善ヲ計リ、会員相互ノ福利ヲ増進スルコトヲ目的トス」とある。素姓のわからぬ紙芝居屋が下劣な弁説で、子どもに残忍、猟奇的な紙芝居を演じ、子どもに悪影響を与えているという批判に対応した業界団体の自主的な結成であったことがわかる。業者のこの動きは、警察の取締の動きを警戒したものであった。しかしこの頃までは、警視庁では、「別に問題にはしてゐません。一種の失業政治として黙認してゐるんですよ」との意向であった(『紙芝居屋の教育的研究』)。

 ところが一九三八年二月二三日に警視庁保安部長は各警察署長に対し、次の通達を出した。 

1、四月一日以降絵画及説明書ヲ警視庁ニ提出シ検閲ヲ受クルコト

  絵画及説明書ノ検印消滅シタルトキハ再検閲ヲ受クルコト

2、左ニ掲グルモノハ作成セザルコト

  イ、残忍ニ過グルモノ

  ロ、猟奇ニ過グルモノ

  ハ、徒ニ童心ヲ触ムモノ

  ニ、其ノ他教育上児童ニ悪影響ヲ及ボスモノ

3、説明書ハ半紙版十三行罫紙ニ明瞭ニ記載シ画面ノ裏ニ貼付スルコト

4、紙芝居業者ノ本籍、住所、年齢、学歴及経歴ヲ記載シタル紙芝居業

   者名簿ヲ作成整理スルコト

 紙芝居業者名簿二部ヲ四月一日迄ニ所轄警察署ニ提出スルコト、転出

   入アリタルトキハ其ノ都度提出スルコト

5、業者ヲシテ左ノ事項ヲ遵守セシムル様注意スルコト

 イ、説明書ニ相違セル説明ヲ為サザルコト

 ロ、物品ノ購買ヲ強要シ又ハ射幸ノ方法ヲ提供セザルコト

 ハ、公安、風俗ヲ害スルガ如キ言辞所作ヲ為サザルコト  

 ニ、交通ノ妨害トナルベキ場所ニ於テ営業ヲ為サザルコト

 ホ、日没後ハ営業ヲ為サザルコト

 ヘ、飲食物営業取締規則其ノ他関係法規ヲ遵守スルコト

6、絵画及説明書ノ作成ニ付テハ成ルベク教育関係者ト連絡ヲ採ルコト

7、講習会、研究会ヲ時々開催シ会報ヲ発行スル等業者ノ素質向上ニ努

   ムルコト

8、業者ノ服装ヲ整正シ一定ノ徴章ヲ 用セシムルコト

9、飴其ノ他ノ販売品ハ包装スル等常ニ衛生上ノ注意ヲ怠ラザルコト

 街頭紙芝居の悪影響への批判の世論が警視庁の重い腰を動かしたといえる。とくに一九三六年の浦田重雄の「猫娘」が「猟奇」、「残忍」との紙芝居批判の世論を巻き起こした。親が猫を殺して三味線の皮にする猫取りを職業としたため、耳を逆立ててねずみを生きたまま食べる娘ミーコが生まれた。「和服のすそを乱し、ちょっと、ふとももを見せて思春期の少女ミーコが四つんばいになって走りまわる画面からは、時代錯誤的なエロ・グロが感じられた。この「猫娘」は異色だったので人気を得たが、たちまち「トカゲ娘」「蛇娘」とまねをする製作所ができて、一時期は紙芝居エロ・グロの流行になった。それが教育者を中心とする紙芝居批判の好材料になった」と加太こうじは述べている(『紙芝居昭和史』)。

 表2はこの通達が出された直後の調査結集である。一部訂正を求められたものは「残忍」が一番多く、「猟奇」によるものは少ない。なぜか森永製菓の作品のみが「猟奇」に該当している。正チャン教育絵話協会が全体にわたり違反の対象になっている。罰則そのものは軽いものであった。

 この条例制定が紙芝居に大きな影響を与えたのは、「絵画ニ説明書正副二通」を出させ、その説明書が「半紙版十三行罫紙ニ明瞭ニ記載シ画面ノ裏ニ貼付」する点にあった。

 加太のいうように、台本がモンタージュ、クローズアップなど紙芝居のドラマトゥルギーを革新させた。台本による数少ない画面の説明が、複雑な筋の展開を可能にした。それと同時に従来簡単な筋書きしか書かなかった台本作家の地位を高めた。さらに学校教育を受けたことのない低リテラシーの紙芝居屋を街頭から遠さける方向を道づけた。しかし業界への権力統制に道を開き、自由奔放な業界活動を萎縮させ、画期的な作品の生産を阻害した。そしてファシズムによる業界統制の序曲となった。

 

  印刷紙芝居の誕生と戦争プロパガンダ

 

 福音紙芝居の発想

 立絵から平絵への進化に劣らず画期的であったのは、平絵から印刷(教育)紙芝居の出現であった。この紙芝居の歴史でのグーテンベルグ的発展を担ったのは、今井よねであった。彼女は東京女子高等師範学校(現在のお茶の水大学)文科を出て、一九二八年、カリフォルニア大学で四年間、神学を専攻し、一九三二年に帰国した。そして独力で本所区林町に伝道、日曜学校の仕事を始めた。四五十人の子どもが毎日集っていた(今井よね『紙芝居の実際』)。

  所がある日曜にことでした。いつも来る子供達がまるで来ないで僅か五六

 人きり来てゐないのです。而もその子供達も「先生、紙芝居が来てゐるんで

 す。あれが見たいんです。行つても善いですか」といふ訳で腰を浮かせてゐ

 ます。「済んだら此処に来ますからやつて下さい」といつた始末で全体を紙

 芝居にとられました。

 そこで今井は紙芝居を子どもと見ながら、聖書物語にある面白い材料を使った紙芝居をつくる決心をした。

 当初は肉筆の福音紙芝居を毎週、日曜学校で行っていると、子どもたちの出席がよくなり、旧約物語を以前よりはるかによく記憶していることに彼女は気づいた。彼女は教会近くの街頭でも、この実演活動を行った。しかし奉仕的な画家の協力をえても、貧しい独立の教会だけで作品を生産し、維持するのは容易ではなかった。当初協力的でなかった教会関係者の理解が除々に高まり、協同して制作、利用する紙芝居伝道団が一九三三年八月にできた。こうして石版で大量生産されるマス・メディアとしての印刷紙芝居が誕生した。一九三五年一月に「クリスマス物語」、「イエス伝」が今井よね編、平沢定次画で、東京キリスト教青年会絵品部門の紙芝居刊行会から最初の印刷福音紙芝居が刊行された。

 キリスト教団の印刷紙芝居の利用に刺激されて、仏教界での布教活動での利用も活発となった。高橋五山が一九三五年に設立した幼稚園紙芝居の版元(全甲社)から、内山憲尚が一九三六年三月にオフセット四色、十六場面の「花まつり」が出た。大谷派本願寺からは同年秋に「親鸞上人伝」、一九三七年春、曹洞宗から宗祖伝などが出版された。一方、幼稚園児の街頭紙芝居への接触の弊害を除去すべく、全甲社は「赤ずきん」、「花咲爺」などの作品を出版した。これは幼稚園紙芝居といわれた。

 

「街頭」と「教育」のいがみ合い

 しかし印刷紙芝居を教育紙芝居として教育界に浸透させた最大の功労者は一九三八年に日本教育紙芝居協会を結成した松永健哉であった。かれは東大のセツルメント運動に加わって校外教育活動を行っているなかで、紙芝居の効用に気づき、東京で小学校教員をしながらガリ版刷りの紙芝居を全国の希望者に配布する運動をはじめた。この運動には全国からかなりの反響があったこと、帝国青少団協会の支援を受けたことに自信を得え、大島正徳を会長にした先の協会を作った。加太こうじによれば、明治製菓を後援者にした「チョコレートと兵隊」の制作がこの協会(加太は協会を教育紙芝居研究会と呼ぶ)結成のきっかけだとしている。その真偽はともあれ、加太が「教育紙芝居研究会は街頭で飴菓子を売って見せる紙芝居を低俗と非難しつづけながら国策紙芝居を作って印刷し、教育紙芝居と称して各種の団体や官庁に売り込んだ。私たち街頭紙芝居のうちの批判者は、あれは軍国主義教育の一端をになうのだから教育紙芝居と名乗るのはおこがましい。真の教育はわれわれの作る子どもがよろこぶ紙芝居の側にある。あれは国策宣伝の印刷紙芝居だと評した」(『紙芝居昭和史』)という論理は正確である。もちろん加太も前年、結成に参加した街頭紙芝居の大日本画劇は印刷紙芝居の制作にも参入し、さらに国策紙芝居を作った。

 しかし教育紙芝居の街頭紙芝居批判は手厳しかった。そこでは街頭紙芝居の極端な低俗さ、刺激的なあくどい色彩や病的に誇張した姿や形、荒唐無稽な化物や怪物の横行、児童の原始的な感情におもねった非教育性、殺人、恋愛,継子いじめなどの残忍な行為、さらには紙芝居屋の野卑な説明、「それらのものが全一体となつて児童に対して強烈な感化」(大阪教育紙芝居連盟『常会と翼賛紙芝居』)とその非教育性を批判した。ところがその教育紙芝居も、自らの制作のノウハウを街頭紙芝居から学んだことは否めない。また街頭紙芝居が築いた紙芝居人気が子どもの世界になかったら、教育界に、さらにはファシズム界に印刷紙芝居が浸透することはなかったろう。

 松永らのつくった日本教育紙芝居協会は、一九三八年に日本教育画劇株式会社を傘下にもって、各種の印刷紙芝居を戦時下に積極的に発行した。表3は一九四三年の印刷紙芝居の版元別統計である。この日本教育画劇が部数、点数において、最大の版元であることがわかる。日本教育紙芝居発行の雑誌『紙芝居』には、毎号、同社発行の作品目録の広告が出ている。それを見れば「常会の手引」、「隣組」のように、常会そのものの運営の仕方を教示する作品がある一方、「家庭防空濠」、「関東大震災」のように空襲・防空の情報を提供したもの、「スパイ御用心」のような国策ものなど硬派から、「虎造くづし」、「まちぼうけ」などの名作もの、娯楽ものも出版されていることがわかる。 

 

  常会での利用

軍需工場、軍隊への紙芝居屋の流出、アメなどの食品の不足などで、日中戦争の拡大とともに街頭紙芝居の担い手が減少して行った。これに反比例して印刷紙芝居への需要は、松永らが手をつけた軍、政府関係、とくに学校、職場、隣組へと広がって行った。このうち町内会、部落会の下に作られた隣組は、戦時下の国民組織の末端にあるファシズムの組織である。この隣組の定例の会合すなわち常会で、一九三八年あたりから紙芝居が活用されるようになった。当時の文献も、「紙芝居の流行は近時下火になった様であるが、常会用として新しい広い利用面」(鈴木嘉一『隣組と常会』)が開拓され、子どもばかりか大人にも接触されるようになったと証言している。

 一九四〇年頃になると、ピーク時に東京で三千人、全国で一万二千人もいた紙芝居屋は東京で九百人、全国で七、八千人に減少した。

 

  大東亜工作紙芝居

 日本教育紙芝居協会の松永健哉は一九三八年末から陸軍省報道部員となり、華南への日本軍の侵略に参加した。かれは敵前上陸前の軍用船で紙芝居を無 に苦しむ将兵の前で一興として演じたところ、全員に感動を与えた。そこで日本軍は占領地中国人の宣撫工作への紙芝居利用を思いつき、松永に担当させた。街頭で八百人ほども民衆は物珍しげに集ったのはよいが、開閉式の舞台を開けると、武器の一種ではないかと、パッと散って逃げ足になった。しかし非常に興味をもった様子。そこで中国人の画家、脚本家、実演者を雇って、中国独自の内容を盛り込んだ作品を制作した。リテラシーの低い民衆を相手に日本軍のプロパガンダを浸透させるには格好のメディアであることがわかった(松永健哉『教育紙芝居講座』)。

 この華南での紙芝居による宣撫工作の成功を目のあたりにした日本軍幹部は、松永を満州、北支、蒙古方面に派遣し、植民地、占領地での工作にあたらせた。生活綴方運動の国分一太郎も広東で南支派遣軍報道部員として紙芝居の脚本を書いた(津田道夫『国分一太郎』)。太平洋戦争による日本軍支配地の拡大とともに、ほとんどの占領地で、かれらが開発したノウハウに基く紙芝居工作が実行された。ビルマのラングーンで日本の特務機関が現地インド人の宣撫に紙芝居を実演した(山本武利『特務機関の謀略』)。

 こうして日本軍の進出する地域には、現地民を対象にした現地語での紙芝居が制作され、実演されるようになった。こうして大陸工作紙芝居と業界で呼ばれていたものが、大東亜共栄圏の建設を目標に、「日本民族と占領地諸民族との親善協力、宣撫活動に使用するもの」として、大東亜工作紙芝居といわれるようになった(平林浩『体験が語る紙芝居の実際』)。

 

 二大紙のニュース紙芝居

 大日本画劇や日本教育紙芝居協会の誕生など印刷紙芝居を中心とした業界の発展が、製薬、印刷、百貨店業界までもが座視できぬほどとなったことは先述した。そこへ新聞業界の大手も参入することとなった。大日本画劇が画家のストライキなどで苦境に陥った一九四〇年に、毎日新聞社が三万円を出資した。この出資に対抗するかのように、朝日新聞社の日本教育画劇株式会社への資本進出をもなされた(CISー770)。後者は毎日との販売競争のための宣伝武器として紙芝居に着目した。紙芝居は朝日の期待以上に成長し、日本教育画劇の資本金は十万円から十八万円へと増資された。政府は同社を戦時中使ったため、繁栄したが、空襲と紙不足が同社を経営危機に陥らせた。終戦まぎわには、同社の朝日への負債は三十万円にも上った。 

 戦局ニュース、時事問題、国際ニュースなどはニュース紙芝居というジャンルとして、戦時下の紙芝居のなかで特異な地位を占めた。しかしいったん紙上にでたニュースをたとえ重要なニュースとはいえ紙芝居化すると、時間がかかって陳腐化してしまう。また写真にはクローズアップやモンタージュなど紙芝居の手法が使いにくいため、紙芝居の観客は内容を見たり、読みとりすることがむつかしかった。したがって大資本の進出にもかかわらず、ニュース紙芝居の人気は高まらなかった。

 一九四六年二月、朝日新聞社は事業中止を宣告したため、賃金不払いの労働者が組合を結成し、相応な退職金を求めた。しかたなく、同社はそのために十万円を支払うことになった、とこのGHQは証言している(CISー770)。なお、紙芝居業界とのかかわりあいについては、朝日新聞社も毎日新聞社も社史などでは一切ふれていない。

 

 少国民文化協会と紙芝居

 一九四二年二月、日本少国民文化協会が設立され、子どもの文化活動にかんする活動を一元的に統一、管理することをねらった。紙芝居はむろんのこと映画、幻灯、音楽レコードなど子どもむけのメディアを事前指導、審査したり、優秀作品に賞を与えるなどの作業を行った(国立公文書館、少国民文化協会関係資料)。紙芝居部門では、街頭、印刷紙芝居が統合的に管理されることになった。同協会紙芝居部会は第一群を街頭紙芝居、第二群を教育紙芝居とわけながらも、両部の連絡、協力体制を緊密にしようとした(平林浩『体験が語る紙芝居の実際』)。戦局が悪化し、物資が不足するにつれ、プロパガンダのメディアとしての紙芝居の安価性、効率性の評価が高まる一方となったが、協会として特段の成果を出すまでに敗戦となってしまった。

 

 大量部数の印刷紙芝居

 表3で点数も部数も多いのは、翼賛紙芝居研究会、画劇報国社、翼賛文化画劇協会といったその社名から容易にその活動内容のわかる版元であった。いうまでもなくこれら版元は政府や軍の要請を受けて設立された軍国物、戦意高揚の紙芝居出版社である。これらの社の紙芝居は一点あたりの部数が他の版元よりも多い点に特徴がある。とくに翼賛紙芝居研究会は一点あたり約一万七千部弱ときわだって多い。おそらく、同社の印刷紙芝居は隣組、職場、学校など全国津々浦々の現場に配布されていたと思われる。 

 一九四二年一二月に日本教育画劇は「軍神の母」を出した。これは特攻隊で戦死した兵士の母が、息子の名誉ある戦死を誇りにもって、銃後の務めに励んでいるという実話に基いたストーリー構成となっている。

 一年間で一万八千部頒布されているこの作品は、一部で最低千人に見られるとすれば、一年に一千八百万人の観客動員数となったという。「昭和十七年中の全国の紙芝居刊行種類が三百種、一部平均二〇〇〇部として六十万部、一作品が仮に千人に見せられたとするとこの延人員六億である」との計算も成り立った(砥上峰次『紙芝居実演講座』)。

 街頭紙芝居批判の世論を利用してマスメディアとなった印刷紙芝居は紙芝居の場を街頭から屋内に移したが、観客と演者が一体化して独自の雰囲気を醸す街頭紙芝居開発のノーハウはちゃっかり活用した。ともかくこのようなベストセラーの出現と膨大な観客の動員は、戦時下の戦意高揚のプロパガンダのメディアとして印刷紙芝居が軍や政府の期待に応えていたことを物語っている。

 

  占領下の街頭紙芝居人気

 

 ピクトリアル・コード

 占領当初、日本のメディアが占領軍に不都合なニュースをかなり平然と流しているのに驚いたGHQは、四五年九月一九日にプレス・コードを出して、日本の新聞、通信社、出版社、つまり活字メディアが守るべき報道の基準を出した。九月二二日には、ラジオ・コードが出された。その内容はプレス・コードとほぼ同一であった。ところが映画、演劇などのメディアが守るべき基準は占領期を通し示されることはなかった。しかし機密解除されたGHQ資料には、ピクトリアル・コードと明示したものがある。つぎのものがその一つである(山本武利『占領期メディア期分析』)。

 全てのピクトリアル・メディアは日本のピクトリアル・コードを遵守せね

 ばならない。その条文は次の通り。

 1、歴史や現在の出来事を事実に基いて表現するという映画、幻燈、演劇作

  品、紙芝居は、真実に則さねばならない。

 2、かかるピクトリアル・メディアは反民主的、超国家主義的、または軍国

    主義的な宣伝に使われない。

 3、占領軍の目的の達成を妨害したり、連合国間の関係を損うものは、ピク

  トリアル・メディアに登場させてはならない。

 4、見出し、小見出し、説明、広告、対話は右の条項に合致すべきである。

 また別のピクトリアル・コードを示す資料(CISー2423)によると、第三条、第四条は全く同じであるが、第一条の「幻燈、演劇各品、紙芝居」のところが「演劇作品」としか記されていない。つまり別の資料は紙芝居の存在を知らない以前の占領初期にでたものであると推測される。

 しかし二つの資料ともに資料作成の年月日が記載されていないので、ピクトリアル・コードの出された時期を特定することはできない。ともかくピクトリアル・コードは公表はされなかったものの、占領初期から全期を通じて、紙芝居や映画など映像メディアの検閲の基準になっていたことはたしかである。

 GHQは第二条にある「反民主的、封建的、超国家主義的または軍国主義的な宣伝」を行っている紙芝居や、第三条にある「占領軍の目的の達成を妨害したり、連行国間の関係を損う」紙芝居を検閲によって公表禁止したり、一部削除したり、修正を求める姿勢を検閲開始時から堅持していた。GHQ資料(CISー770)も、「検閲活動はピクトリアル・コードによってなされ、パス、一部削除、公表禁止のいずれかの処置をとっていた」と述べている。

 

 検閲と没収

 GHQは封建色や軍事色の排除を占領初期の主目的としていたことが判明する。つまりピクトリアル・コードの第二、三条に基いて検閲がなされていたわけだ。検閲当局は占領初期、超多忙であった。なによりも膨大な戦前の作品が版元や支部、さらにはサービス前線の紙芝居屋に所蔵されていた。四六年二月二一日〜三月二〇日の時期に四つの貸元をPPBが強制捜査した。かれらが未検閲の作品を所蔵し、子どもに見せていることが明らかとなった(CISー1764)。かれらの自主性に任せておくことが難しいことが判明した。版元を中心に各現場の代表者を糾合して日本紙芝居協会を結成し、それを窓口に検閲活動の効率的、組織的な実施を行なおうとした。東京下町や江東に多い有力版元の家屋が、空襲で焼失したものの、流通している作品の点数はばかにならない量であった。それらを絵から、必要な場合には裏の説明文を翻訳して、検閲の処分を行う手間暇がかかった。

 それでも街頭紙芝居は一点のみしか存在しなかったので、流通過程のどこかの現場でいったん押えて、検閲してしまえば、当局にとって不都合な作品が観客の面前にあらわれる心配はなかった。ところがすでに戦前に刊行された印刷紙芝居となると、各作品を検閲したところで、その作品の印刷されたもの全てに検印を押すことは困難であった。「神国の母」のような長期ベストセラーになると、その作業は気が遠くなる分量である。業界団体を通じて、公表禁止や一部削除決定作品の各版元での裁断、破棄を指示したが、自己資産の処分を行おうとする版元の腰は重かった。当局も版元の自主的な処分実行に懸念をいだいた。

四六年五月二六日、日本教育画劇が戦前に製作した三千九百五セットが、東京京橋のカワムラという裁断専門の会社で処分された。その際には、PPBの紙芝居係の川口ミドリと日本教育画劇の前田が立ち会った(CISー762)。

  

  検印偽造大阪貸元軍事裁判有罪

 このように本格的な取締りを開始しだしたとはいえ、他のメディアのような効率的な成果はだしにくかった。まず一匹狼のような紙芝居屋が個々バラバラで掌握しにくいことがあった。四六年七月、大阪の鈴木という紙芝居業者が軍事裁判にかけられ、千五百円の罰金と八か月の懲役の判決が下った。ただし、かれはまもなく一か月半の懲役に減刑となった。

 かれは所有の紙芝居を未検閲のまま所持していた上に、そのうち、一二セットに偽造のGHQの検印を押し、検閲をパスしたと見せかけていたが、五月二九日、手島というGHQの職員に摘発された(CISー778)。

 以下はこの摘発にかんしCCD第U地区の映像係から第T地区のPPB課長に送られたリポートである。

  1、手島氏は五月二十九日、鈴木氏が使っていた未検閲の紙芝居を発見し

   た。鈴木氏は十一月以来検閲の対象になっていた。

  2、鈴木はかれの所有する紙芝居は全て二月の第一週までに検閲を受けて

   いたと主張した。かれは未検閲のものがかれの手許に入るとすぐに報告

   すべきはずだったのに、毎週、そのようなものはないとの報告を当局に

   行ってきた。

  3、五〇〇点以上の未検閲の紙芝居がかれの家で発見された。

  4、さらに、鈴木は“連合国占領軍検閲済み”証を示す偽造の検印を自分

   の所有する紙芝居に押していた。五十二点の未検閲のセットのうち十二

   点がその検印が押してあり、かれはその作品を観客に公然と見  

   せていた。

  5、鈴木は軍事裁判所に送検されたが、判決が下されるまでは拘置される。

 

 紙芝居を含めメディア関係者の軍事裁判への送付は、この鈴木が最初であった。有罪判決を受けたのもむろん最初だった。後には四六年八月の大阪の中華国際新聞社や四八年の日刊スポーツ社、四九年の連合通信社、大阪民報社とあらわれたが、占領軍を通じて、それほど多いわけではなかった(『占領軍メディア分析』)。未検閲の紙芝居を所有したり、上演する業者は少なくなかったので、これだけでは軍事裁判にかけられることはなかったろう。当局が悪質と見たのは、にせの検印を押して、平然と公開していた点である。

 大阪のPPB支部が送検してもいいかと問合せてきた際、東京のPPB本部では進んで許可した。かれの判決についてPPBのカステロ課長は、「この判決は紙芝居業者に意外に重いとの印象を与え、検閲に出す紙芝居のセットが急増するようになった」と記している。

 

 佐木秋夫の東京裁判証言

 四五年一一月頃からGHQの文献に登場する佐木秋夫は、一九〇六(明治三九)年、東京に生まれた。一高を経て、一九三〇年東大文学部宗教学科を卒業した。文化問題や宗教思想の研究者であったが、一九三八年、日本教育紙芝居協会の設立に関与し、常務理事を務めた。また日本少国民文化協会紙芝居部会の常任幹事として、業界と政府、軍部との橋渡しを勤めていた。また一九四三年には、芸術学院出版部から『紙芝居』という本を出版するなど、紙芝居とくに印刷紙芝居業界の論客としても台頭していた。このかれはGHQから接触を受け、紙芝居検閲に協力を求められると、日本紙芝居協会の業界団体を結成し、その専務理事として、四〇歳の若さで業界のまとめ役となった。

 佐木は四六年六月二〇日、二一日に、東京裁判で、弁護側証人として出廷し、政府よりも大政翼賛会の指示で、戦争協力の紙芝居が大量につくられていることを証言した(櫻本富雄・今野敏彦 『紙芝居と戦争』)。そして六月二一日、紙芝居を実演した。この日の東京裁判には、新聞界から緒方竹虎(前朝日新聞社長、情報局総裁)やニュース映画製作者中井金兵衛が出席し、証言している。つまり佐木は緒方という大物と並んで東京裁判に出頭したわけで、かれの名を世間に広めると同時に、紙芝居の業界的地位を高める契機ともなった。

 なお、GHQ資料でも、IPSのハーシー検事が四一年一二月七日以前、つまり開戦前につくられた紙芝居の戦意昂揚のプロパガンダにどれ程活用されたかを調べるため、実物を提出するようPPBの方へ要請してきたとのメモがある。PPBは六セットの紙芝居を簡単な英訳をつけて提供した(CISー771)。

 

 失業者の業界参入

 終戦の翌年の一九四六年後半から紙芝居の人気は上昇しはじめ、四七年〜五〇年には史上空前のものとなった。戦前のピーク時の一九三四年(昭和九)に警視庁が行った調査によれば、貸元四三、画工百四十四人、紙芝居屋千七百人の業者がいた。しかし実際の紙芝居屋の数はこれよりも五、六百名多かったようである。四六年三月、GHQの事情聴取にたいし、佐木秋夫は、戦中の紙芝居屋はアマ五千人、プロ二千人であったが、戦後はアマは変わらないものの、プロは五百人に減っていると答えている。GHQもしばらく業界規模を掌握できなかったが、業者側の組織が確立するにつれ、第1地区(東日本)の総数をつかむようになった。それは表4に示される。

 全国の数字は見あたらない。また画家や作家の数が四七年から四八年にかけて半数以下に激減している理由もわからない。少なくとも警視庁管内では、紙芝居屋の数は年々増加し、四八年には戦前のピーク時に近づいたといえよう。戦災、敗戦による日本経済の極度の不振と引き揚げで急増した失業者が、資本がなくても手早く現金が得やすいこの業界に殺到した。戦前の紙芝居屋には活動弁士、チンドン屋など多少とも紙芝居にかかわる説明、演技の経験者が多かったのに対し、戦後の紙芝居屋にはただその日の現金収入を求めるアマの失業者が目立っていた。かれらは演技者というよりは説明者であった。いや説明者というよりアメの売人といった方がよかった。

 

 東京の街頭紙芝居貸元

 ともかくこの業界は一般の産業に比べて急速に回復してきた。その回復力は用紙事情に左右されにくい街頭紙芝居の方が強かった。四九年まではきびしい用紙不足であった。日本紙芝居協会では四七年春に業界の一年間に必要な紙として、印刷紙芝居業三千二百連、街頭紙芝居五百連と算出している。しかし印刷紙芝居に配給される用紙は限られていた。しかるに一セットだけつくればよい街頭紙芝居業者は、戦前からの在庫や配給で需要にかなり対応することができた。

 四七年四月一日にGHQは東京地区の有力貸元の調査をまとめている。

それぞれの住所、画家数、作家数、紙芝居屋数、本・支部数のみを表5にまとめておこう。表7で注目されるのは、向島、荒川、本所、葛飾など下町に本部が多いことである。世田谷、荏原などは山手といえるが、バラック住宅の密集地に本部があった。

 大手の業者となると、東京、神奈川、埼玉、茨城などに支部を設置しているものの、その数は多くない。画家、作家はもちろん本部に所属している。紙芝居屋は本・支部のいずれか一つに所属して、その近隣を商圏としていた。表5には揚げなかったが、本部で電話をもっているのは平和会、日芸画劇だけであり、また資本金もあけぼの会の二〇万円をトップに、多くは一〇万円以下である。つまりいずれの貸元も零細企業である。GHQもつぎのように述べている。

  東京の紙芝居会社の平均資本金は七五、〇六一・六二円である。個々の紙

 芝居企業の規模を的確に把握するには、この数字を巨大映画企業の一つ東宝

 の資本金四千万円と比較するのがよかろう。また紙芝居会社の平均月間支出

 が七万五千円であるのに対し、東宝のそれは約三千万円である。

 なお紙芝居屋の収入は、所属する貸元によってかなりの差がある。二百〜二百五十円の日収をあげる者が多かった。

 

 回復遅い印刷紙芝居業界

 四六年末の日本紙芝居協会の調査によると、戦後活動を一応開始したのは日本教育画劇、国民画劇、日本画劇の三社にすぎない(表6)。その部数、点数は一九四二年の表に比べると格段の差がある。四七年四月にGHQは国民画劇と日本画劇のデータを残しているが、両者とも電話がない。画家、作家の合計も国民画劇が一二人、日本画劇が九人と、表6の街頭紙芝居貸元の中堅程度である。この時点では、印刷紙芝居は版元の戦災の打撃、用紙不足、印刷所不足から立ち直るきっかけをまだつかんでいない。紙不足も回復を遅らせている。四八年には復興の兆しを見せているが、それでも紙芝居は街頭紙芝居といって過言ではなかった。なお、銀座、豊島に発行所がある点、表  と表7は対照的である。

 

  

 表6 印刷紙芝居の版元別統計(一九四六年)

  

   版元名(所在地)       部数         点数

 日本教育画劇(銀座)   三一、〇〇〇        七

 日本画劇(豊島区)    五一、〇〇〇        六

 国民画劇(銀座)     四二、〇〇〇        八

 新日本文化協会(札幌)   二、〇〇〇        一

 サンシン会         五、〇〇〇        一

   計         一三五、〇〇〇       二三

           CISー770による。日本紙芝居協会調べ

 

 表7 府県別観客動員数順位    一九四九年三月

 

  順位               府県                   観客数

                  東京                  一四八、七七四、〇〇〇

                  大阪                  一二九、四七二、八〇〇

                  福岡                    三五、〇四〇、〇〇〇

                  兵庫                    三四、七九九、一〇〇

                  神奈川                  三三、七五五、二〇〇

                  栃木                    二九、六九六、四〇〇

                  愛知                    二六、二八〇、〇〇〇

                  群馬                    二三、一九九、四〇〇

                  埼玉                    二二、九五五、〇〇〇

 一〇               京都                    二二、一七七、四〇〇

                    全国                  六二一、四〇八、八五〇

                                     CIS―772による

 

 六億人を超えた観客数

 四八年から四九年にかけて、紙芝居人気がピークに達した。四九年三月にGHQが独自の収集資料と紙芝居業界団体から得た資料に基づいて、各府県の紙芝居観客数、製作者、貸元数、紙芝居屋の大規模な集計を行っている。表7は上位一〇の府県の観客動員数を示す。

観客数は一日で百七十万人、一年で六億二千百万人に達している。東京では一日四十万人、大阪では三十五万人が紙芝居を見ていることになる。もちろん観客の大部分が子どもであった。

 

 過熱する人気

 在日アメリカ軍機関紙『スターズ・アンド・ストライプス』は四七年二月一五日に、“ペーパー・シアター”なる紙芝居特集を行い、そのなかで“自転車の上のシアターに押し寄せる日本の子ども”に注目した。同じ年の一一月三一日に、PPBの紙芝居係りが世田谷での日本紙芝居実演連盟所属の紙芝居屋の実演を見ていると、紙の裏の検閲済みの説明書きから離れて、アドリブの説明を子どもの前にしていることがわかった。かれにその理由を尋ねると、説明書きは短すぎるため、アドリブで説明を加えざるをえないとのこと。子どもを引き寄せるために、かれに限らず、多くの紙芝居がそうしているらしい。この実態を知った紙芝居係りは、説明書きに工夫をこらす必要性を報告している。

 『アサヒグラフ』一九四八年一二月二〇日号にでた紙芝居屋の話のうちの二つを引用しておこう。

  学校のひけた頃合を狙いながらまわるのが仲々の苦労もんで、だから今

 日はどの学校で学芸会、今日は運動会と学校の行事には子供らより詳しいで 

 すぜ 

  お客は子供だけだと思ったら大間違い。おばあさん、お母ちゃんは勿論、

 大きい子供にうけが悪いとてんで商売になりません。場所によってはロハ見

 物も多うがすし、熱演し過ぎると子供に尻のポケットも狙われようという。

 全く怖るべき子供らですな 

 ともかく人気は高まるばかりである。娯楽不足や学校の二部授業、さらには食糧事情の悪化にともなう菓子不足が、子どもを紙芝居屋に走らせた。『第一新聞』四八年六月二四日付の記事にはこうある。 

  最近ひんぱんに遅刻する子供達に不審をいだいた中野区塔之山小学校で、

 三年生四十名について調査したところ、その八割が登校のさい「紙芝居」に

 ひっかかっていることがは判り、中野署に報告して来た。同校を中心に一日

 十二カ所、延四十三回行われている紙芝居見物、一日に十回以上を見る子供

 が男七、女三で、平均五、六回が一番多く、一日二十五円の投資をする女生

 徒二人をはじめ、十円どまりが二十名、その内七名は一ヶ月七百五十円の消

 費。あくどい内容に童心を刺激されて、買食から怠学、不良化と転落した例

 も一、二ある。同校ではPTAによびかけて、紙芝居内容を検討すると共に、

 近く紙芝居業者を招き、場所、時間の再検討をはかるというが、中野署から

 の報告で、警視庁少年課でも、童心を毒する内容の紙芝居はなるべく上演せ

 ぬよう業者に要望している。

 この記事を転載した雑誌『紙芝居』四八年一〇月号は、「本件に関して当管轄部で早速事情を調査した結果、事実であることが判明」と付言している。子どもの紙芝居接触が学校遅刻、買食いなどの教育問題、社会問題へと広がるほどの過熱ぶりを示してきたことがわかる。そしてこのような世論の高まりが、後に述べる自治体の取締条例を生むことになる。

 

 各方面での印刷紙芝居への注目

 しかし、紙芝居の子どもへの悪影響が本格的に論じられるのは四九年以降であって、それまではその人気に便乗する勢力の方が強かった。GHQ資料には、四七年春、警察が交通安全や犯罪防止教育に紙芝居を利用しているとある。またそのころ、CIEのフランシス・ベーカー女史は紙芝居を試作して、日本政府に複製と配布の依頼を行った。彼女は農産物や工場生産品の都市、農村への相互の流通促進のための紙芝居を農林省に対し提示し、さらに性病予防のための紙芝居も作成中とのこと。また彼女によると、日本政府はこのプログラムに二千百万円の予算を当てているという。警視庁が犯罪予防週間のために紙芝居作成の許可を四七年八月に要請してきたのにたいし、CCDは許可した。このような申請は静岡の女学校や清水谷青年団からも来た。 

 四八年五月には、曹洞宗が古代インドの仏語にかんする紙芝居を六百部作成し、末寺に配り、日曜学校で子どもに示すとある。さらに同年六月、天理教では紙芝居を五百万円の予算で作成し、一万人に及ぶ布教活動者に配布する計画をGHQに打診してきた。これに対し、CIEでは教団本部の所在する第U地区(大阪、中部地区)のピクトリアル部門の検閲を受けるように指示した。

 政府や宗教団体の紙芝居が印刷紙芝居業界の息を吹き返させた。こうして戦前の旧勢力が紙芝居人気に便乗して、再びそれを情報の上意下達や勢力拡大に利用しはじめたわけである。

 

  印刷紙芝居利用の左翼プロパガンダ

 

 民主紙芝居人集団

 戦前はきびしく弾圧されたため、紙芝居とは縁のなかった共産党や左翼系の労組、文化団体が四八年あたりから紙芝居を勢力拡大に活用するようになった。GHQ資料に登場する最初のものは、四七年二月のゼネストのために東北地区の全逓が作成した手書きの紙芝居で、検閲をパスしている。そして四八年四月旗上げした民主紙芝居人集団が活発な動きを示すように比例して、GHQの紙芝居への警戒が強まり、その関連の資料が頻出するようになる。

 民主紙芝居人集団は共産党の傘下にある日本民主主義文化連盟(文連)に所属し、結成当初は六〇人の画家、作家、貸元などが参加した。その幹部は次の人たちであった。

代表 相馬泰三

委員 稲庭(いなにわ)桂子、佐木秋夫、加太こうじ、松井光義、斉藤正行GHQの聴取に対し、相馬は文連への参加は情報交換のための便宜的なもので、文連の指導を受けていないと答えている。だが、GHQはこう分析する。

  民主紙芝居人集団のメンバーは、紙芝居の創造や大衆化、また文化的、社

 的な水準の向上をねらって結成されたものと言い張っているが、そこの出す作

 品の台本や絵が共産主義的傾向を示していることは明らかである。その ねら

 いが共産主義的運動に紙芝居を最大限有効に提供することにあって、紙 芝居

 の民主的な発展などを念頭においていない。

 

 稲庭桂子の作品

 GHQは民主紙芝居人集団の文連参加の背後には、教育紙芝居界の作家稲庭桂子がいるとにらんでいた。彼女がこの集団の実質的リーダーであったことはたしかである。いや彼女は占領期ばかりか一九七五年に病没するまで戦後の印刷紙芝居業界のリーダーであった。GHQが左翼系紙芝居の代表作とみなした三三点のうち、三分の一が彼女が脚本したものであった。その稲庭作品の四点が公表禁止、二点が一部削除だった。

 

 

 作品名    版元      画家     検閲結果    日時

 クロ子の   民主主義  ヤギヤスユキ  パス    四七、三、一三

 選挙   文化連盟

 働くものの  同     加太こうじ   公表禁止  四七、五、一六

  図

 正作     同     永井淳     パス    四七、五、二三

 お母さんの  同     岩崎ちひろ   パス    四七、一二、五

  話 

 帽子の行方  同     松山文雄   一部削除  四七、一二、一六

 くろい虫   同     松山文雄    パス    四八、一、八

 みんななかよく 同    西原ヒロシ   公表禁止  四八、一、二七 

 税金メガネ  同     ヤギケンジ   公表禁止  四八、七、一

 眠らぬ国  民主紙芝居   ―       パス    ―

        集団 

 ヨーコの   同      ―      一部削除   ―

  メーデー

 みんな  三菱化成鶴見工場

 仲良く   労働組合

       文化教育部   ―      公表禁止   四八、一

                            

              CISー769、780による

 

 四八年四月四日現在の検閲申請紙芝居三千二十六点のうち、左翼系と見なされて公表禁止や一部削除となった作品は全体の〇・三%にすぎなかった。この数字と比較しても、稲庭作品の処分率がきわめて高かったことがわかる。「クロ子の選挙」「働く者の国」「お母さんの話」「正作」は検閲パスの代表的な彼女の人気作品であったが、四つともGHQは共産党色濃厚と断定している。永井潔が絵を書いた「正作」は地主小作問題を描いた作品で、若くて貧しい農民正作が、一生懸命働いても貧しいのかという疑問から、地主階級との闘いを行うというストーリーであった。ところが「働く者の国」のように公開禁止とならなかった。しかし「正作」が文連を通じて二百三十部購入され、配布されたことをGHQは気にした。『アカハタ』は再三、この作品を紙上で激賞していた。

 

 新しい紙芝居―農村の子供が主人公

 新しい紙芝居が文連の手でつくられた。

 稲庭桂子さんの作品「正作」で、絵はとくに日本美術会の俊英永井潔氏が執筆  

 

 している。農村の子供を主人公としている点と、永井氏の絵による美術教育を  

 かねている点は注目されていい。(『アカハタ』一九四七年一〇月二五日)

 

 GHQは四八年四月から八月にかけて、この「正作」が上演されたり、販売された地区を丹念にフォローしたリストを作成するほどであった。GHQ紙芝居係に勤める日本人か、日本の警官が調べたのだろう。 

 「働くものの国」は最初は公表禁止となった作品である。

 

 稲庭桂子GHQ調書

  次は稲庭の学歴や業界歴をまとめたGHQ調書である。。 

  

 誕生日   一九一六年一一月一一日

 誕生地   盛岡

 現住所   世田谷区一一七二ー二 

一九二八年  桜小学校(世田谷区)卒

一九三三年  青山女子学校(東京青山)卒

 稲庭桂子によれば、彼女の母が重病だったため、卒業後は定職に付けなかった。 開戦前は短期間、鉄道会社や産業組合に勤めた。戦時中の一年間が日本教育画劇株式会社でプロパガンダの紙芝居を書いた。彼女の当時の紙芝居は右翼のプロパガンダを扱っていた。稲庭は日本教育画劇に雇われる前の四年間、カメヤハラ・トクの下で台本の研究をしていた。東京で空襲が激しくなると、家族と盛岡に疎開し、結核療養所に入った母の看病をしていた。

 稲庭は一九四七年一月、文連に入った。彼女は連絡員として組織部門で働くとともに、文連のために紙芝居を書いた。彼女の連絡員の任務は主として偵察であった。文連が新しい組織を加入させようと企てたとき、彼女はその目的を調査するために派遣された。そしてその組織が文連と共通とするなにかをもっているとわかれば、彼女は提携を求め、文連の会員を増した。彼女は一九四八年八月三一日に文連から離脱した。 

 一九四八年四月、彼女は民主紙芝居人集団の組織化に協力した。彼女は現在もこの集団の総務担当役員である。彼女は多くの左翼紙芝居を作りながらも、自分は共産主義者でないと主張する。また彼女は共産党員になったこともないと述べた。

 彼女は戦時中に日本教育画劇のために戦争プロパガンダの作品「櫛」などの十一作品(上地ちづ子『紙芝居の歴史』)を書き、当時から「宣伝作品で之だけ書ければ達者名者」(『紙芝居』一九四三年二月号)と評価されていた。盛岡のサナトリウムで母を見取った後、占領初期上京し、「紙芝居は民衆のものだ。民衆をぬきにして紙芝居は存在しない。これはむかしからそういう事になっていた。とするならば、現在民主主義革命えの途上に於て、紙芝居が果さねばならぬ役割は、非常に大きい筈だ。それなのに、ハッキリと文化活動としての意義をもった紙芝居運動が、よりあがって来ないのは不思議だ」(『紙芝居』一九四七年一二月三〇日号)と述べ、文連活動に参加。自らを含めた紙芝居関係者は「戦犯」であったと自己批判し、「専門人」として民主主義革命に紙芝居を貢献させねばならないとの決意を行動に移した。そして「紙芝居をつくりながら、紙芝居人の組織に取りくんだ」(子ども文化研究所編『紙芝居』)。ただ調書にあるように、彼女は共産党員でないと述べている。民連は完全な共産党の傘下にあった党の文化運動組織であったので、GHQも稲庭の発言に疑問をもっていたが、その証拠はつかめなかったようである。なお、「働くものの国」で絵を書いた加太こうじ自身は、GHQ調書で一九四六年 、金町地区細胞の共産党員であると述べている(CISー780) 

 

 共産党の紙芝居プロパガンダ

 四八年は、共産党が党員と機関紙『アカハタ』部数を伸長させた時期である。GHQの検閲や関心もそれにつれ共産党を中心とした左翼メディアへ移っていく。紙芝居は取締りのむずかしいゲリラ的なメディアとしてGHQを一層いらだたせたようだ。四八年一〇月一八日付のリポートは子どもへの影響力の高まりに憂慮の念を隠さない。

 共産主義者の雑誌『新星』一〇月号から得た情報では、共産党は子どもへの働きかけを始めたようである。“アカハタの紙芝居おじさん”が子どもに人気があるのは、話がとても面白いし、ふつうよりも上演時間が長いからである。かれは子どもにアメを買えとは強制しないし、タダでも見せてくれる。そんな利口な心理作戦で、子どもの心はアカハタの側に確実になびき、占領に批判的な感情を起こさせる。PPBはこれに関連したリポートならなんでも受け付けるわけではないが、そのような展開には目を見張っていくことになろうと述べている。 

 占領とともにGHQは大量の手紙を開封し、日本人の世論の動向や機密情報をとらえようとしていた。共産党や『アカハタ』の勢力拡大はGHQの党員、党機関への関心をいや増す。四八年一二月四日付の『アカハタ』下田分局から東京の編集局への書留が開封された。それによると、伊豆半島南部の文化活動の一環として、当地の共産党は下田小学校に三百人の子どもを集め、歌声や紙芝居、人形劇の催しを行った後、白浜村でも紙芝居を上演した。また夜には党員の討論会が開かれた。さらに同年一一月三〇日付の荒川区の党員から秋田県の女性党員にあてた手紙の開封から、GHQは、下部党員が八丈島への文化活動に派遣され、人形劇や紙芝居などによって党の支持者を島民に獲得せんと努めていること、また荒川区では反税闘争や文化活動を通じて次の選挙での党の躍進を図っているとの情報を入手している。実際、この頃の『アカハタ』には紙芝居を党活動に活用している記事がよく出る。たとえば四八年六月一一日付の「紙芝居と童話の会」という見出しの記事では、盛岡地区北岩手細胞群では、五月三一日、新町小学校で百五十人の子どもを集め、「正作」、「黒い虫」の紙芝居を実演した。すると子どもは「戦争をおこそうとしているにくい黒い虫を退治しましょうといえば、皆手をたたいてさんせい、またぜひやって下さいと注文が続き、次回を約して散会した」という。また党機関紙会議でも、子ども会での紙芝居の活用を党員に呼びかけた。

 表8は四五年一一月から四八年一〇月までの第T地区の紙芝居検閲総三万八千四百九十六件のうち、二千六百二十九件の処分理由を分類したものである。右翼のプロパガンダに比べて左翼のプロパガンダを理由とするものはきわめて少ない。しかし表4〜5には、左翼プロパガンダの項目がなかったことから、四八年からこの種のものが目立ちだしたことがわかる。また暴力・不安の助長や安寧秩序破壊の項目にも、共産党関係のものが入っていることに注意したい。たとえば四九年八月に加太こうじが検閲に提出した「人民の旗」は、戦時中逮捕され、戦後釈放された党員の復習を描いた作品だが、「暴動・不安の助長」との理由で公表禁止にされている。

 一九四九年六月二三日、PPBのピクトリアル部門では「紙芝居分野での左翼活動」という総括的なリポートを出している。戦前期では紙芝居は右翼プロパガンダのメディアとして日本政府によって育成されてきたが、今日では、共産党がプロパガンダのために活用するようになったという。文連とその傘下の民主紙芝居人集団は戦時の政府と同様に工場や学校、村々に紙芝居を配布している。現在、街頭紙芝居までは支配されていないが、“赤い旗”をもつ紙芝居屋は子どもの人気を集めている。

  かれら共産党によって訓練された連中は、本屋やデパートで売られる検閲

 済みのものばかりでなく、未検閲のものも使っていることはたしかである。

 共産党による未検閲のものの利用は極秘とされている。かれらの手法は賢明

 で、長編ものを無料で見せている。商業的な紙芝居ならば見せる前にアメを  

 売るのが普通なのに・・・

 「紙芝居分野での左翼活動」リポートが出た直後の四九年八月の「PPB月報」によると、北海道富良野地区共産党委員会は四九年六月一五日からは作品を、四〇人の子ども向けに上演した。そのなかには三点の未検閲のものがあった。ところがその一点がなんと「みんななかよく」という稲庭の公表禁止の作品が入っていた。これは北海道の共産党の青協ヤマベ班が複製したものであった(B8585)。

 

 コードから条例へ

 

 左翼以外には甘い検閲

 四八年七月まで新聞、出版などは事前検閲、その後は事後検閲に移った。この事後検閲も四九年一一月からすべてのメディアで廃止され、無検閲の状態となった。

 紙芝居のうち、街頭紙芝居は一セットしかなかったので、公開される前に検閲を受ける事前検閲が最初から続いていた。印刷紙芝居は事前検閲期にはほとんど刊行されず、四八年八月からの事後検閲期に入って急速に点数が増加した。左翼関係のプロパガンダで公表禁止となるものの大部分は、事後検閲期の印刷紙芝居といってよかった。

 GHQの紙芝居検閲の対象は当初は右翼のプロパガンダにあったが、四八年あたりから左翼のそれに転換していった。しかし右翼の新作紙芝居が出なかったわけではない。四七年三月のGHQ資料は、浦和市の大日本公徳会が戦後失われた道徳心を再興させる紙芝居を検閲に提出してきたため、全文を英訳してCIEなどとも協議したと述べている。ところがこれが公開禁止にされたとの記録は残っていない。

 重大な検閲違反にも甘くなった。四六年の大阪の紙芝居業者は検印偽造により軍事裁判で有罪判決となったのに、四八年八月のPPB月報によると、浦和市の稲垣ソーイチは同じ容疑で注意処分を受けただけであった(CISー6405)。また四八年七月に東京台東区の歌田シゲオが偽造検印を「サンチャン・山の巻」という作品に使った際、軍事裁判にかけるべきかどうかの論議がPPB内部でなされたが、結局見送られた(CISー769、773)。その理由は、歌田がこの罪の重大さへの認識がなかったことに求められた。ただし再犯となればかれは起訴されるとの条件つきであった。

 

 街頭紙芝居への批判

 ところが日本人の大人の紙芝居への批判は、子どもへの悪影響という点から高まっていった。つまり四八年頃からGHQの主眼が左翼イデオロギー色の濃い印刷紙芝居に向けられたのに対し、日本の世論は低劣、俗悪といわれる街頭紙芝居を専ら批判した。GHQ資料にはその位相差に気づいて、当惑しているものが散見される。

  本課では一九四八年六月十四日のラジオ“婦人の時間”に流された親と子

 どもに紙芝居への意見を求める街頭インタビューの録音を入手した。この録

 音でも、新聞記事でもあきらかなのは、母親が子どもの道徳への紙芝居の影

 響に一方ならぬ関心をいだいていることである。彼女たちはグロテスクもの、

 ギャングもの、探偵もの、“英雄崇拝の心理”をあおる幻想的で、超自然的

 なものを扱う紙芝居に憂慮している。この録音で、紙芝居屋が占領軍の検閲

 を受けていると発言している。これはそのような作品を検閲でパスさせてい

 るGHQを間接的に批判したものに他ならない。(中略)本課は道徳的な観

 点から検閲を行っていないので、検閲の基準に反しないものであれば、どの

 作品もパスさせている。作品をつくる貸元にはくり返し強調していることで

 あるが、作品に検閲済みのスタンプが押してあるからといって、その内容が

 子どもの教育に良いものとは限らないということである。

 検閲がなされていること自体、GHQは認めていなかったが、占領も三年近くになれば多くの日本人はその存在を知っていたと思われる。風俗壊乱や性的表現の類には、各コードとも寛大であったため、それを理由とした公表禁止や一部削除はほとんどなされなかった。したがって、世論がまゆをひそめるような街頭紙芝居はおおっぴらに上演されていた。また子どもに売る菓子が不衛生との批判も多かった。各紙誌が紙芝居を倫理や衛生の面で取締るべきとのコラムや記事を掲げた。

 ここで代表的なものとして、『週刊朝日』一九五〇年二月一二日号の「紙芝居エンマ帳」がある。

  路地のうすい陽だまりに、七、八歳をかしらに、十数人の子供たちが、紙

 居の小父さんの自転車をとりまいて、ワー、ワーと口々に騒いでいる。小父

 さんは、チーンと鼻をかんだその手で、短い箸の先にチョッピリ水アメをつ

 て子供にわたしてやる。今はやりの象の形のモナカのカラが二つ組合せで三

 円、象の頭に三角の帽子をかぶせて五円、中に水アメを入れると七、八円に

 なる。赤い色で汚く染めた、オブラートのような花丸センベイを、はしから

 少しずつかじつている子供を見るとあわれにもなる。

 不衛生な紙芝居屋の手から渡されたアメをなめつつ子どもが見はじめた「タ

 ンちゃん」なる漫画は「絵はまずく、きたなく、そこにはなんのユーモアも感

 ぜられない」。女の子に人気の現代悲劇「真心」は両親の不和を扱ったもの。

 三本立の最後の活劇は「白面鬼」「人食い婆さん」「ジャングルターザン」「魔

 の巨人」いずれも勧善懲悪の昔と変わらぬものばかり。子どもは断片的な一コ

 マ一コマに心をうばわれている。どの紙芝居にも少しもあたたかいものがない。

 すこぶる殺伐で野卑で荒んだものばかりである。

 こうした紙芝居が子どもたちに、どのような影響をおよぼすか?ひとつの現

 れとして警視庁少年二課にある報告を見よう。

  一日に業者が何人も来るため、子供の小づかいがかさみ、ついには家庭か

 ら金を持ち出した(富坂署管内)。紙芝居の見料に十円ずつとつてクジ引き

 させ、一等に三十円二等に二十円返す方法で、子供にトバクをおぼえさす(荒

 川署)。子供が学校へゆく時刻をみはからつて来るため、遅刻や欠席がふえ

 た(淀橋署)。そして一番恐ろしいのが今流行の「泥棒ごつこ」「パンパン

 ごつこ」などで、紙芝居の筋にヒントを得て、無意識の中に大人の悪い面だ

 けを覚えこむことだという。

  都の小学校長会でも、これと同じような報告が出され、いろいろな要望や

 意見が交わされている。「業者の言葉が悪く、野卑で困る。台本通りやるも

 のが少ない」「余り来すぎる。今来たと思うと、又来るので、幾ら金を出し

 ても間に合わないと親たちからの苦情がある」

 「紙芝居以外で子供をつる、トバク的ゲームは余りにも非教育的である」

  さらに各区の母の会でPTAでも批判の声は強いが、中にこんな実例も持

 ち出されている。

  山の手の会社員の家庭で、三年生の男の子が、母親に小づかいをねだつて

 断られ「何いつてるんだい。お母さんだつて間男をつくつて金を使つてるじ

 やないか」と憎まれ口を叩いたというのだ。唖然とした母親に子供は「だつ

 て紙芝居の小父さんがいつたよ。どこのお母さんだつて間男してるつて―そ

 ういえば、きつとお小づかいくれるんだつて」

  また江東の色街を「ネエちやん、あそばしておくれよ」と、口々に騒ぎな

 がら歩いている小学生、それも低学年の一隊をとがめたら、紙芝居の小父さ

 んから「教えてもらつた」と答えたという。

 

 神奈川県条例制定

 それらの日本のジャーナリズムの批判記事をPPBでは集めて翻訳した。しかしPPBは世論を気にしつつも、ビクトリア・コードの枠を出た取締りをしなかった。

 取締りに腰の重いGHQに代って名乗りをあげたのは、地方自治体であった。とくに大都市やその周辺地区の自治体が紙芝居業者取締条例の制定に熱心だった理由は、紙芝居の子どもへの弊害を声高に叫ぶ都市住民が多かったからである。まず最初に神奈川県が神奈川県紙芝居業者条例を四九年三月二四日に公布した。

 紙芝居屋に試験を課し、それに合格した者のみに免許を与え、営業を許可するというのが、条件の骨子だった。試験は日本語、数学、社会の筆記、子どもの衛生、健康、安全の口頭、実技の三種類に分けられていた。この神奈川県条例が制定されたころ、GHQの内部では、これはGHQの取締りに代って、日本の役所が直接統制に当たるものではないか、つまりSCAPIN66号に違反するのではないか、との議論がなされた。たしかに条例制定はGHQの直接メディア統制の原則に反するものであった。しかし紙芝居屋への世論の風圧は、子どもの人気が高まるに比例して強まるばかりであった。その批判が間接的なGHQ批判につながるおそれが出てきた。さらには、そのころ、メディア検閲の中止自体がGHQ内部でスケジュールに上っていた。また条例制定は共産党の紙芝居利用を抑制できるとの計算もあったろう。実際、『アカハタ』四九年八月一八日付は“紙芝居に弾圧条例”との見出しで、条例が共産党の紙芝居活動の阻止も視野に入れていると批判している。このような理由でGHQはコードから条例への一部移行を黙認することになったと思われる。神奈川に続いて、四九年から五〇年にかけ、千葉(一九四九年六月三〇日公布)、大阪(一九五〇年八月一一日公布)などでも似たような条例が誕生した。 

 この条例制定を避けるべく、あるいは条例を業界に不利な内容に制定させぬために、四九年六月に日本紙芝居協会は、CIEの職員を呼んで、民主主義、健康、交通安全、児童福祉、教育などの講義を会員に向けおこなった。また同じ年の一〇月一八日、紙芝居屋が東京都紙芝居審査会を結成し、業者自身の審査委員会を結成した。その委員会結成の目的は、

 一、都下紙芝居業者の民主化の徹底

 二、紙芝居文化と紙芝居業者の資質向上をはかるため、内部の要請によって

   設けられたものである 

との相馬泰三委員長のことばに表現されている。そして委員会による認定証が発行された。

 東京都紙芝居審査委員会の結成は、東京都、警視庁など権力の業界規制を誘うような神奈川県紙芝居業者条例に似た東京都の条例制定を回避することをねらっていた。それはビューロクラシーや権力を本能的に嫌い、自由な営業活動を志向する紙芝居屋の願望を表現していた。この認定制によって新人試験に合格したのは、受験者の半分くらいであったという(浅井清二『紙芝居屋さんどこ行った』)。

 しかし認定制だけでは、なかなか業界の資質の改善、作品内容の向上につながらなかった。先に引用した『週刊朝日』の記事がそれを物語る。各紙誌による紙芝居屋批判の声は、東京を中心に盛り上るばかりである。権力はそれを煽って介入の口実をつくろうとした。認定証を持たない紙芝居屋が横行した。これらもぐり業者への作品の貸与は、貸元の売り上げ拡大につながっていたし、条例にみられるような罰則がなかったからである。認定制で合格した紙芝居屋はもぐり業者の増加を好まなかった。認定制は風然の灯となった。

 そこで一九五一年一月九日、紙芝居倫理委員会が結成された。その規定には暴力、戦争否定、猟奇、描写排除などが 謳われていた。しかしこの規定がどの程度、浸透したかどうかはわからない。

 一九五二年春には日本子どもを守る会が結成され、街頭紙芝居の加太こうじ、永松健夫、松井光義などが浄化運動をすすめた。地方の業者にもその統制反対の運動に参加する者が出てきた(堀尾青史、稲庭桂子『紙芝居』)。

 

 取締と街頭紙芝居の「浄化」

 紙芝居屋の活動は時の権力の都合で規制された。最初は一九三八年の警視庁の通達であった。「残忍」、「猟奇」な内容がチエックされた。これは「猫娘」にみられるエログロの街頭紙芝居を対象にしたものであった。これによって自由奔放な発想による創作、子どもの好奇心に極端に迎合した作品は少なくなり、結果として子どもの紙芝居離れにつながった。

 占領初期のGHQの封建的、皇国的な作品の没収、公表禁止は、奔放な内容の劇画の産出を抑圧した。またGHQは検印のない紙芝居の上演を禁じ、にせの検印をつくって使っていた大阪の紙芝居屋を軍事裁判で有罪に処した。そのためGHQは街頭、印刷いずれの系譜の紙芝居をも事前検閲によって取締ったが、戦前、戦中の作品のチエックが一応終了すると、エログロ作品の上演には戦前の日本政府とはちがって自由放任とした。しかしGHQは冷戦の進行に合わせ、共産党や左翼勢力の印刷紙芝居に厳しい取締を行うようになった。社会主義やソ連を賛美する紙芝居は、事前検閲で公表禁止になったし、検閲パスの作品でも、左翼的な作品の組織的な上演には厳しい目を光らせ、取締、介入のチャンスをねらっていた。

 街頭紙芝居は、戦争ものの没収後は、戦前以上に自由な活動が与えられた。業界幹部へのGHQ権力への迎合、すり寄りが見られたことはたしかであるが、GHQ側も街頭紙芝居には左翼イデオロギーがないと見なして、その荒唐無稽な内容やエログロを大目に見た。

 しかしGHQが左翼紙芝居屋の取締に当たっていた頃、日本人の世論、ジャーナリズムの街頭紙芝居批判が急激に高まった。下品な言葉を使い、不衛生な手でアメを売る紙芝居屋が、威嚇、卑わいな内容の作品を子どもに売ることへの批判は、神奈川、千葉、大阪などの府県に取締条例を公布させることになった。試験制度を導入し、学科試験に合格した者のみの営業を許すことになった。条例は日本政府によるメディア取締を許さぬというGHQの基本政策に矛盾するものであったが、GHQも見て見ぬふりをしたのは、業界に目に余る行為があると認識していたからであろう。

 大手紙芝居貸元が集中し、紙芝居屋も多い東京では、業界団体が東京都紙芝居審査会を自主的に結成したり、紙芝居倫理規定を設けて、権力の直接介入を避けようと努めた。業界による審査も行われた。

 自主規制にせよ、条例施行にせよ、全国各地で街頭紙芝居への権力の介入が増えたこと、そして業界も貸元を中心に真剣に作品内容の改善を図ったことはたしかである。その努力を評価しないわけではない。しかしその動きが、紙芝居の生命ともいえる自由奔放な作品の産出を阻害し、子どもの紙芝居離れ、業界の縮小再生産を加速させた。「山手は一ばんお上品みたいですが、下町の威勢のいい子供達にお上品な言葉でやっていると子供達はついて来ません」(『紙芝居』一九四八年七月号)と紙芝居屋が語っている。条例制定後の一九五〇年代には紙芝居史上に残る街頭ものの名作、ヒット作は見当らない。また粗製濫造の作品は行儀がよすぎた。条例と無理な自主規制が紙芝居をつぶした。稲庭桂子ら印刷紙芝居のリーダーは街頭紙芝居攻撃では世論と終始連携した。「浄化運動というけれど、稲庭さん、それは自分で自分の片腕を切り落とせというのと同じですからねえ。」といったのは、永松健夫(黄金バットを最初に描いた画家)であった(堀尾、稲庭『紙芝居』)。 “やはり野におけ紙芝居”であった。

 

 街頭紙芝居と印刷紙芝居

 一九三〇年代前半、福音紙芝居や教育紙芝居の創始者は街頭紙芝居への子ども人気、メディアとしての紙芝居の影響力や感化力に驚き、それを印刷複製し、利用することによって、自己の目的を達成しようとした。街頭紙芝居の威力を評価しつつ、一方でその低俗な内容を批判した。たしかにかれらは街頭の人びとよりも高い教育と広い視野をもっていた。かれらは山手に住み、山手の世論を代弁した街頭攻撃に走った。街頭紙芝居の欠陥を克服したハイブロウな作品で、紙芝居の良さをより広範囲に生かそうと努めた。

 しかし福音紙芝居にしても、教育紙芝居にしても、独立した経営を行えるだけの独自の市場を開拓するのに成功しなかった。そこで印刷紙芝居の関係者は権力と資力をもつファシズムに接近し、学校、職域、常会、軍隊さらには植民地、占領地の人びとへのプロパガンダのメディアとして活用されるようになった。印刷紙芝居は国策紙芝居、軍国紙芝居として幅広い市場を見出したのである。

 街頭紙芝居の担い手にとっては、この印刷紙芝居の動きは当初、無縁の存在であった。かれらは子ども相手に手描きの紙芝居のシステムを守りつつ、アメ売りで自ら生計をたてていた。乞食紙芝居屋、一銭紙芝居屋と社会的に蔑視されながらも、子どもの支援を支えにしぶとく生き延びようとした。しかし画家、作家ともに国策紙芝居からの誘惑には、抵抗できなかった。かれらは印刷紙芝居と協力することで、糊口をしのぎえた。さらに貸元でさえも、同じ事情で印刷紙芝居の発行を行うところもあらわれた。

 戦時期においては、印刷紙芝居の勢力が強かったが、戦後の一〇年間ほどは街頭紙芝居の方が子どもの圧倒的な支持をえて隆盛をきわめた。紙不足、印刷工場焼失によって、印刷紙芝居の復興に時間がかかった。一方、街頭紙芝居は紙や絵具不足にさほど苦しむことはなく、手描きの制作を続けることができた。市場には、失業中のアマが多数入ってきて、空前の街頭紙芝居時代を盛りあげた。

 戦争末期に少国民文化協会の傘下に街頭、印刷紙芝居業者が入ったが、末端の組織は別々であった。戦後はGHQの圧力で戦犯免罪と引きかえに、双方の業界が日本紙芝居協会に大同団結させられた。そのリーダーの佐木秋夫が街頭紙芝居と印刷紙芝居は業界の両輪と述べていたのは、GHQの方針を代弁していた。戦前、戦中に制作された作品の検閲、没収作業が一段落すると、GHQは二つの業界の結束にはさほど関心をいだかなくなった。

 GHQは左翼紙芝居の台頭の方に次第に注視する。検閲体制が整備された頃に、GHQが音頭をとって団結した業界が、皮肉にも反GHQの方向に転換しはじめた。GHQの検閲方針に心ならずも従い、渋々と業界の団結を図っていた業界リーダーが、左翼紙芝居の活動には積極的に協力し合うようになった。民主紙芝居集団の結成がそれである。検閲不合格による公表禁止、一部削除による合格といった作品は検閲提出作品全体のなかではごく少なかったが、左翼的な作品で目立っていた。それらは印刷紙芝居作家の稲庭桂子作、街頭紙芝居画家の加太こうじ作の「働くものの国」に代表されるようなソ連賛美の作品が多かった。かれらの所属する民主紙芝居集団の動向がGHQ検閲当局をいらだたせた。

 しかし左翼紙芝居は台頭したものの一時的であった。一九五〇年の朝鮮戦争勃発による共産党弾圧で衰退したため、長期的な活動はなしえなかった。そして左翼紙芝居が衰退する頃に、紙不足解消、印刷工場復興で、印刷紙芝居が教育紙芝居として力を盛り返した。一九五八年の学校カリキュラム改正による紙芝居教材の使用中止までの時期、印刷紙芝居ははじめて営業的に自立した。 

 一方、街頭紙芝居は一九五〇年代後半まで繁栄した。一九五三年のテレビとくに街頭テレビの出現は街頭紙芝居に脅威を与えたが、業界ではそれを深刻と考えぬほどに戦後のブームの力が残っていた。業界で直接的な脅威だったのは地方自治体の条例制定であった。街頭紙芝居への批判は強かったし、業界の良心派には論理的に肯定せざるをえない批判であったので、条例の遵守、業界倫理委員会の制定で対処した。しかし業界では業界主流派の動きに同調しない貸元が多かった。一匹オオカミの紙芝居屋には条例未認定の作品を公然と上演する者が多かった。そして業界が倫理問題で混乱し、低俗な内容の改善に努めているうちに、作品そのものが子どもの関心を引かなくなって行った。条例の尊重は角をためて牛を殺すことになった。その間にテレビが街頭紙芝居のもっていた野性的な作品を放送しはじめると、見るのにアメを買わなければならない紙芝居は子どもからソッポをむかれることとなった。

この世間お騒がせの街頭メディアの消滅は世論の紙芝居への関心を低下させ、市場規模を縮小させた。一人残った印刷紙芝居にも街頭紙芝居の消滅が打撃となった。両輪の一方が欠けた業界は間もなく尻貧状態になった。

 

 紙芝居からテレビへ

 

 街頭紙芝居の広告メディア化の動き

 一九三八年、日本画劇株式会社が誕生した際、明治、グリコの出資が見られた。森永が独自で紙芝居会社を設立した。これらの食品会社は貸元への出資、支配を通じて、食品の売り上げルートを確保し、アメ市場でのブランドのシェア拡大を図っていた。また別の資料では、松竹や森永が紙芝居を広告メディアに仕立てて、子どもをターゲットとした広告活動を行う動きがあったらしい。しかしこの動きは世論の反発があって中止となったらしい。台湾でのラジオ放送で一九三二年にCM放送がなされたにもかかわらず、新聞資本の反対で  六か月で中止となった事例がある。また政府は日本放送協会でのCM放送を排除してきた。このように広告メディアの誕生には戦前からきびしい状況があった戦前、紙芝居が広告メディアとして一部に注目されていたことは興味深い。

 戦後の紙芝居の世界でも、その動きがなかったわけではない。次のGHQ資料は、紙芝居が活況を呈したPPBのピクトリア課の一九四九年三月一〇日付のメモである(CISー772、993)。

  

 移動劇画広告社

 

 1、新しい広告ビジネスが紙芝居業界に生まれた。横浜市港北区日吉町三一

  二 福田テツオが五万円の資本で移動劇画広告社を設立した。

 2、この新しい紙芝居は、物語を演じるタイプではない。この紙芝居は作品

  の表に各種の会社の広告の絵を描き、裏に広告文を記載する。たとえば

  届出たものを見ると、この作品は昇仙閣ホテルのスケッチと道路マップ

  をのせている。各カードは別々の会社をのせているが、一セットは十から

  十二のカードから成り立っているの。本課で受理

 3、福田は画家で、ときどき児童芸能社や全優社の紙芝居を描いてきた。現

  在、かれはフリーのデザイナーで、有名な『スタイル』誌にもドレスデザ

  インをのせている。かれは自分でポスターを描き、一日二百円で二人の高

  校生を雇って、その紙芝居を見せさせる計画である。広告紙芝居は劇場、   

    鉄道駅前やバス、市電のターミナルで公開されよう。

 4、アルファベットの“IK”がこの新会社の略号でとなる。

 GHQはこの広告社の設立に異論があろうはずがなかった。ただこの紙芝居を広告メディアとして使った会社がどの程度存続したかはわからない。GHQ資料には、広告メディアとしての紙芝居に関連したものは他に見あたらない。ともかく、物語ではなく、広告のみの絵、イラストとコピーをのせたアイディアは戦前にはなかったし、戦後もこれが最初ではなかったろうか。メディアとしてのこの福田なる画家が注目した。この福田は全優社という印刷紙芝居にかかわっていたので、印刷による広告紙芝居活動に展開しょうとしたらしい。つまりマスを志向した広告メディアの開発を試みたわけだ。

 この資料は紙芝居と民放テレビとが広告という観点からみて、連続線上にあることを示唆している。紙芝居に接触することが日常茶話事となっている都会人に新メディアの開発を訴求する。街頭紙芝居と形態が全く同じテレビとくに街頭テレビに広告メディアとして可能性があることに確信したのは、正力松太郎であった。

 

 街頭紙芝居と街頭テレビ

 一九五三年(昭和二八)八月二八日、日本テレビ(NTV)がNHKに遅れること半年で開局した。NHKはラジオの受信料でゆうゆうと経営できるのにたいし、NTVは広告収入で経営を維持しなければならなかった。ところがNTVはわずか八六六件の受信契約数からスタートするので、スポンサーはNTVの広告媒体価値を評価せず、広告収入は期待できないというのが常識であった。

  「『街頭の皆さん!押し合わないように願います。危ないところに上がら

 ないでください・・・・・』―正力社長の脳裏にひらめいた“街頭テレビ”

 の着想は、見事にヒットした。テレビの人気は、街頭テレビによって爆発し、

 頂点に達した。東京・新宿区新宿サービスセンター前では、大群衆のため都

 電が止められ、ガラスが割れ、街路樹に登って見ていた人が落ちるという混

 乱が起こった(中略)プロ野球、プロボクシング、プロレスリング、大相撲

 などの中継のときには、一台に八〇〇〇人から一万人の大群衆が詰めかけ、

 付近の交通は完全にストップし、整理に当たる警官がついにその任務をあき

 らめ、群衆ともども街頭テレビをながめるという光景が生まれた。街頭の群

 衆は、川が流れるように絶えず流動する。したがって、一日の延べ人員から

 推量すると、おびただしい視聴者が突如として出現したことになる。昭和三

 十年一月二十三日の大相撲初場所千秋楽中継のときには、延べ四三五万人近

 い視聴者(調査台数一六一)が動員された。」(NTV編『大衆とともに二

 五年』)

 このNTVの社史が示しているように、正力関連の文献では、正力が街頭テレビを設置するアイディアを思い着いたと記している。一方、アメリカの技師のアイディアだという説もある(柴田秀利『戦後マスコミ回遊記』)。その真偽はともかく、当時、NTVの営業課長だった野地二見は、筆者にこう語っている。

 野地 街頭テレビは正力さんの発想ということになっていますが、本当のと

 ころは誰が発想したかわからないのです。ただ、言えることは街頭にテレビ

 を設置して何千人もの人を集めることは、正力さんだからできたといえます。

 昭和二十八年当時、終戦から八年しか経っていない、この頃の社会はまだ騒

 然としており、街頭に何千人もの人を集めることは警察が認めるはずがなか

 ったのです。それができたのは、正力さんが警察畑出身だったからです。都

 内の警察署長のほとんどは正力さんの息のかかった人だったし、秘書を務め

 ていたのが、元刑事だったんです。

  また、街頭テレビの設置を推進したのは事業部でしたが、その部長は警視

 庁出身の橋本道淳さん。この方は後に読売新聞社の事業本部長、常務、専務

 を務めています。

  いろいろな文献には、街頭テレビについて正力さんの発案だ、いや誰か正

 力さんに入れ知恵をした人がいるといった話が書かれていますが、私にいわ

 せれば、そうした論議はあまり意味がないと思います。重要なことは、街頭

 テレビが実現したのは正力さんがいて、警察の協力があったからだというこ

 とです。

  警察はデモやお祭りの際の人出を発表するように、毎日街頭テレビに何人

 の人が集まったか調べて発表していたし、日本テレビの社員も手分けして調

 べて回り、レポートを報告していた。正力さんはそうした情報を集め、警察

 調べ何人、日本テレビ調べ何人といった形で発表させ、広告主獲得の有力な

 手立てにしていたのです。

  また、街頭に設置した大型受信機はすべて米国製であり、それらを買う外

 貨を手当てすることが当時としてはなかなか難しく、これを可能にしたのも

 正力さんの政治力だったといえましょう。(『日経広告研究所報』一九九五年六月号)

 警察関係者への発言力、影響力をもつ正力だったからこそ、設置に警察に文句をいわせないどころか、協力させたことはたしかである。この街頭テレビは当初は二十七インチあるいは二十一インチで、新橋、渋谷、新宿などの駅前広場、東京駅、京浜急行横浜などの駅構内、日々谷公会堂前、上野公園など公園、繁華街,逗子、八王子、水戸などの駅前,四十数ヵ所に置かれた(『毎日新聞』一九五三年八月二十三日)。一日十万人が見ているとの記事がある(『毎日新聞』一九五三年十月二日付夕刊)。ほとんどが山の手に設置されていた。このような場所には、街頭紙芝居屋は来ていなかった。当時の写真を見ると、通勤サラリーマンの男性が多い。そのひしめく数千の群衆のなかで、子どもが遠くからテレビを見ることはむつかしかった。街頭紙芝居は近所の顔見知りの人と見る仲間集団のメディアであったのにたいし、街頭テレビは相互に匿名の群衆の視聴するメディアであった。その群衆はいつ暴徒に軟化するか警察はやきもきしていた。当時は内灘米軍試戦場反対闘争、スト規制法抗議ストなどで国内は騒然としていた。だが正力はかれの大衆の欲望把握の直観力で、テレビ視聴は大衆の不満を吸収し、社会不安を除去する機能をもつことを認識していたと思われる。

 当時のテレビの受像機はアメリカ製一七インチもので二五万円もしたが、一般のサラリーマンの給与は二万円程度であった。そこで人びとは街頭テレビや飲食店、喫茶店などにテレビを見に出かけた。子どもは隣近所で購入したテレビを視聴するようになった。街頭テレビを見た子ども仲間が、近所の初期購入家庭を訪ねはじめた。大人が駅前テレビで力道山に熱狂したように、子どもらの人気トップの番組も力道山の出るプロレスであった。ショーが八百長、やらせとわかっていても、大人も子どもも力道山のアメリカ人レスラーノックアウトに拍手喝采し、溜飲を下げた。力道山は紙芝居の劇画の英雄を連想させた。かれはまさに黄金バットだった。正力は興行師的な感覚でプロレス←→街頭テレビ←→視聴者の連関性を見ぬき、受信機不足←→広告収入不足の常識を見事に打ち破ることができた。

 正力が街頭テレビ設置を強力に推進させるとき、かれの念頭に街頭紙芝居があったかどうかはわからない。ともかくかれがA級戦犯容疑で収容されていた巣鴨拘置所から釈放された一九四七年九月からテレビ局構想を画策しだす一九五〇年あたりが、街頭紙芝居人気のピーク時であった。公職追放で収入がなく、三等車や電車で東京を動きまわるかれの目に街頭紙芝居の姿が印象づけたことは容易に想像できる。紙芝居にたいしメディア経営者として、そして警察官僚としての鋭い目が注がれていたと思われる。

 なお一九五五年に東京の二番目の民放テレビ局として開局した際、TBSテレビも街頭テレビを数十台東京周辺に設置した。この設置台数を当初、TBSが七九台と発表したところ、NTVは同局の調査で三〇台に過ぎないと反論した(大場格之介『民放創生期の風濤』)。その設置台数の正確な数はつかめないが、各局の設置競争も街頭紙芝居に大きな影響を与えたことはたしかである。

 

 消費のメディア

 NTVの開局初日、アナンンサーは緊張の余り、森永製菓と呼ぶべきところを”明治製菓の提供です”とチョンボした。この二つの有力製菓会社は戦前も紙芝居業界に資本進出し、紙芝居を宣伝メディアとして活用しようと試みていた。そして創業早々の民放テレビのスポンサーとして名乗り出た。これは街頭紙芝居にとって強敵があらわれたことを物語っている。

 街頭紙芝居は底辺の階層の子どもにアメ買いによる一銭支出の習慣をはじめてつけさせた。安価、低質の商品とはいえ、一度消費の喜びを味わった子どもは年齢を重ねるごとに、そして所得が増えるに比例して、消費を拡大させた。

 テレビは買い食いという紙芝居の伝統を引き継ぎ、子どもの消費文化ばかりか大衆消費社会を浸透させた。紙芝居はなんどか広告メディアとして成長する可能性はあったが、メディア側にも広告主側にもその成長を促す要因は未熟であった。テレビが消費文化としての紙芝居文化の未発のメディア的側面を継承し、発展させた。紙芝居は直接的に、民放テレビは間接的に子どもに視聴料を負担させた。直接、間接の違いがあるが、その基盤は共通していた。

 

 長谷川町子の鋭い観察

 『朝日新聞』一九五三年五月二〇日付朝刊の「サザエさん」に次のような描写がある。カツオが電気屋の店頭の人だかりを見て、親父さんをテレビ見物に誘う。当時はNTV開局前で、NHKだけが放送していた。その目玉は相撲中継だった。テレビの相撲画面に見入っていた所へ、客の来なくなった紙芝居屋がアメを売りに来る。しかしカツオたちはちょっと振り向くだけである。この紙芝居屋はおそらくアメの販売もできずに、寂しく去って行ったと思われる。当時紙芝居業界でテレビに脅威を抱く人は少なかった。街頭テレビの出現時に作者長谷川町子は紙芝居の行方を捉えていたわけだ。

 

 

オーディ・エンスの位相差

 長谷川町子だけではない。子どもがテレビに走ったために、紙芝居は消滅した、と多くの論者は述べる。たしかに子どもの遊び時間のうちの紙芝居への接触時間を、テレビが奪ったために、紙芝居人口は急減した。形態、送り手の類似性、さらには受け手の継続性において、二つのメディアには類縁関係がある。しかしそれで議論が完結してしまっては、紙芝居のメディアとしての全体像の把握に失敗してしまう。

 テレビのオーディエンスはあらゆる階層、地域に広がっている点で、都市の子どもを中心とした紙芝居のそれに比べて膨大である。紙芝居には、主婦や大人のオーディエンスもいるにはいたが、その比率は低かった。テレビは街頭テレビで都市の大人、家庭視聴で子どもを捉えてはなさなかった。

 しかしテレビには、紙芝居に見られた送り手と受け手の一体感が欠如していた。紙芝居はオーディエンスの興味、関心が敏感に反映できるミニ・メディアであった。紙芝居屋は子どもの反応を見ながら、説明に工夫をほどこした。子どもがわかりなくい態度を示しておれば、説明を詳しく行った。つまらなさそうな表情が子どもから読みとれれば、面白おかしい説明を加えねばならなかった。子どもの評価は厳しかった。面白くない絵や説明を示す紙芝居屋には、翌日からはアメを買わなかった。紙芝居屋にとって、一本一本、一日一日が勝負であった。視聴率の結果が翌日判明するメディアである点では、今日のテレビと似ていたが、その数字は個人業者たる紙芝居屋の生計を左右した点で、今日の巨大テレビ産業のディレクターやタレントよりも深刻であった。

 このように紙芝居は受け手の反応が短時間に計測できるメディアであった。つまり双方向性が鋭く往き交うメディアであった。つまりぎりぎりの小づかい銭の限界効用を最大限に効率的に享受せねばならない子どもは、面白い紙芝居のみを選択した。

 

メディア史上での紙芝居

 

紙芝居=絵説き説

 林屋辰三郎、桐棹忠夫、多田道太郎、加藤秀俊の討議をまとめた「大衆娯楽の秘密―紙芝居」という『朝日新聞』一九六一年六月七日付の記事は、紙芝居を日本の視聴覚文化史のなかに次のように要領よくまとめている。

  紙芝居の出現に即していうならトーキーに追われて新しく就職した活弁が

 絵説きにあたるといってよかろう。しかもこの活弁が日本独特の産物である。

 外国から無声映画がはいってきたとき画面と画面の間にはいる英語の会話や

 説明文が一般の日本人にはわからなかったため、日本語で解説を加える活弁

 の存在が必要になり、やがて独特の活弁口調なるものを生み出してゆく、画

 面を見ながら説明を聞くーこれは紙芝居と同じだ。アメリカでは活弁は不要

 で、画面を見、次に説明文を読むとう。

  絵を見ながら話を聞くという姿勢は、絵巻物以来の伝統としてあり、のぞ

 きからくり・うつし絵を経て、無声映画の活弁でみのり、やがて紙芝居を生

 み、ついに今日のテレビ時代を迎えることになる。つまり日本の視聴覚文化

 に絶えざる連続性があり、紙芝居もこの線上でとらえてこそ正しい位置づけ

 ができるわけで、その延長戦にテレビがあるのだから、世界中で一ばんテレ

 ビ文化の出現を待望していたのは日本人だったといえるのではないか。現在 

 のテレビの隆盛ぶりも、故なしとしない。 

 中世の絵巻物に紙芝居の源流を求めた点は独創的とはいえるが。のぞきからくり・写絵については、『紙芝居精義』などの通説をとり入れている。日本しかなかったといわれる映画の活動弁士(活弁)を絵巻物を説明する人物の絵説き、さらには紙芝居屋と同じ位置づけとしている点もさすがである。そしてテレビを紙芝居の延長線上に位置づけ、絵巻物から来た日本の視聴覚文化史の現在の終点と見なしている。

 なおこの討議に加わった加藤秀俊は『見せ物からテレビへ』のなかで、より多角的にこの命題を深めている。

 しかしこのような視点はメディアの形態から見たものである。紙芝居の枠組とテレビのサイズが似ていて、テレビはまさに電気紙芝居という考えと共通している。また絵説き→活弁→紙芝居屋→テレビタレントという連続説は、送り手からみた共通点を表面的にとりあげたものにすぎない。

 これらの視聴覚メディアの作品=リストの問題やそれを享受した、観客つまりオーディエンスの視点が欠如した議論といっていいすぎでなかろう。 

 

 紙芝居屋=行商人説

 先に紙芝居屋の先祖が絵説きであったという説を紹介した。それは形態から見ての表面的な類似性を見たものにすぎない。それよりも紙芝居屋は富山の薬売りに代表される行商人に源流があったのではないか。かれらは薬や小間物を販売するために全国を巡回していた。かれらは他郷の情報を村人に面白おかしくしゃべることによって、外界の情報への渇望を満たしていた。昔話にあきていた共同体の人びとは、かれらが伝えてくれる情報を歓迎し、そのサービスへの代償として、かれらの持参の商品を購入した。かれらの話術は巧みすぎて、マスツバもの、ヤラセを思わせたが、それでも村人は歓迎した。

 また行商人は他郷の錦絵や浮世絵、たまにはかわら版を持参することもあった。村人はますます興味かわらの話に聴き耳をたてた。そしてかれらの話しがウソや誇張でないことを示し、村人の不信感をやわらげさせるのに成功した。そして一層、商売は順調に進んだ。 

 他郷の情報に強い好奇心をいだく田舎の人びとは、たまに訪ねてくる「世間師」の話に耳をそばだて、その情報を聞きもらさないほど熱心であった。「世間師」の側でも、その期待に応えるべく、ジェスチャーを加えて、巧みに語りあかした。また人びとを笑わせたり、感動させたりする話芸のコツを経験的に修得していた。話芸は行脚僧など宗教関係者が卓越していた(関山和夫『説教の歴史』)。かれらは、他郷から新しい情報を運ぶ対価として、商品を売ったり、一宿一飯のサービスを得られることを知っているだけに、共同体の人びとに満足感を与える情報提供活動に懸命となった。

 しかし「世間師」には、定住者から階層や出身地の点で卑賤視されがちな出身の人が多かった。つまり、どこの馬の骨ともわからないという漂泊者への身分的な差別感があった。さらにかれらの担う情報への不信感もあった。それはとかくマユツバものだと受けとめられた。しかも巧みな話術から、ヤラセ的な作り話やウソを見抜く聴き手も少なくなかった。口がうますぎるので、ウサン臭さをぬぐえない。このように身分的な差別感と情報への不信感が、定住者の方の根底にあった(山本武利『新聞記者の誕生』)。

 この行商人の伝統が紙芝居屋にも受け継がれたと見てよかろう。行商人のもってきた商品にあたるものが、紙芝居屋にとってはアメであった。行商人持参の他郷の情報や錦絵が、紙芝居屋の絵に相当した。

 なお料理をとりながら見物をする習慣は芝居、相撲などに普遍的であった。アメを買った後で、アメをなめつつ紙芝居を見る習慣がすぐに形成されたのも、この伝統から来ている。

 

 紙芝居屋=アメ売人起源説

 加太こうじによると、立絵時代の紙芝居屋は、テキヤつまり露天商の親分にサカズキをもらって身分になった。しかし昭和初期に同業者が増加したので、縁日祭礼だけの商売では生活が成り立たなくなった。そこでテキヤの縄張り外の、空地や街路で商売を縁日祭礼の日以外でも営業しようとした。すると、テント小屋を張れないので、見料がとれない。「それなら、見料の代わりに飴を売ろうということになった。七十人ほどの紙芝居屋が結束して、親分に生活苦をうったえ、自由営業をするためにサカズキを返すというと、親分のほうもみとめた。以後紙芝居屋は街頭等で演じられるようになった」(『紙芝居昭和史』)。

 紙芝居屋とアメとの関係の起源について、加太説以上に詳細なものはない。立絵から平絵へ紙芝居屋が進化するとともに、アメは紙芝居屋につきものとなった。加太によれば、初期の頃、アメは七本一銭で仕入て、一本一銭で売ったという。

  テキヤにサカズキを返したというものの、紙芝居の絵を作る者、それを借

  りて紙芝居をやって生活する者のあいだには、テキヤ組織に似た先輩後輩

 の関係や、テキヤが商品をおろす仕組みに似た紙芝居の絵の配給制度、飴の

 卸売り制度があった。テキヤ組織からまなんで、紙芝居の親方になった者が、

 そういう仕組みを作ったのである(『紙芝居昭和史』)。 

 紙芝居屋には、直接アメ屋から仕入れる資力や信用、さらには才覚が欠けていた。とくに子どもが好む粗悪なアメを極端な安価で仕入れすることが不可欠であった。しかしアメ屋の方が強い立場で紙芝居屋を支配しがちとなった。ますます弱少で不慣れな紙芝居屋が出る幕ではなくなった。そこで画家と作家に紙芝居の絵を制作させる貸元は現代風に言えばプロダクションに相当したが、同時にアメの仕入れ元つまり卸商ともなった。さらに絵とアメさらには自転車をも紙芝居屋に貸し与える貸元はテキヤの親方のような存在となっていたらしい。アメを売って絵を見せる街頭紙芝居屋はアメの売人のイメージが誕生期から強かった。アメを売ってから絵を見せるかれらは、アメ売り商人と見なされたのも当然と思われる。ただ専門的な技能の必要だった立絵時代の紙芝居屋には、プロの芸人のような人物が目立っていたので、アメ売人とのイメージは少なかったが、失業者の素人が容易に扱える平絵時代となると、営業の姿勢が次第に露骨となり、紙芝居屋=アメ売人と見られてきた。

 なお平絵時代が進むと、加太説にあったように、昭和初期から街頭紙芝居のテキ屋離れは次第に進んで行ったことはたしかである。自由に営業場所を求める紙芝居屋の動きに対するテキ屋の親方、あるいは暴力団のショ場代の請求を示す資料はない。貸元のテキ屋的慣行も薄らいで行ったようである。紙芝居屋同志の営業場所をめぐる口論はあったようだが、テキ屋親方や建元のそれに介する介入はなかったようである。暴力団も子どもの世界での微々たる商売には、介入する意欲が湧かなかったのかもしれない。

下町のメディア

 下町の子どもは一銭の子づかいを持って、アメを買うために、紙芝居を見るために、紙芝居屋のいる狭い路地、公園、焼跡などに集まった。子どもたちのいる家は軒割長屋で狭く、落着いて読書する空間はなかった。日雇人や車引きなど底辺労働者の親は低所得で、忙しく子どもにかまうことはできなかった。この下町のドブ板、バラックの密集空間が安価で、庶民性のあるメディアを誕生させ、育成させた温床である。『東京毎夕』や『都新聞』が一部に購読される程度の文化的環境であった。

 下町のメディアとしての紙芝居は、下町に貸元、画家、作家そして紙芝居屋を集めて誕生し、不況の全国化とともに山の手、そして全国へとネットワークを拡充した。しかし戦時景気が紙芝居屋を他者業に流出し、他の地域で衰退した日中戦争以降も、下町では街頭紙芝居が命脈を保っていた。戦災そして敗戦は、全国の空間を下町化した。そこで全国的に紙芝居業が叢生したが、やはりメッカは下町であった。全国に配給網をもつ有力の貸元は、戦前からの下町の“老舗”であった。印刷紙芝居が銀座、神田といった出版界のメッカに身を寄せたのに対し、街頭紙芝居屋は下町に相変わらずの金城湯泄を維持していた。

  

エピローグ

 

紙芝居の手法―佐藤春夫の指摘

 白土や水木が引きついだ街頭紙芝居の独自の手法とは何か。人物、場の全体像を描写する 俯瞰 、人物の顔、目、などの一部を大きく描写するクローズアップは紙芝居よりも映画の手法であろう。しかし画面を抜いたり、差し込むスピードに対応した場の表現などが紙芝居とくに街頭紙芝居が開発した手法といわれる。また観客と演じ手が言葉や動作で相互に行う作品への参加とそれにともなう共感の演出の手法は紙芝居独自のものといってよい(まついのりこ『紙芝居共感のよろこび』)。つまりコミニュケーションの双方向の手法だ。。数少ない場面に起承転結をつけ、次回に期待をつながせる手法は紙芝居独特とはいえないが、制作者がいつも心がけるものであった。さらに数少ない予算で制作せねばならない紙芝居は、経済的に見合う最大限の場面数設定で物語を完結させる手法の開発を促した。

 佐藤春夫派『紙芝居』一九四八年七月号(復刊第四号)で「紙芝居の魅力」を論じている。(この文章は『佐藤春夫全集』第十巻所収の著作目録に記載さてていない)。

   紙芝居といふものは面白いもので、子供たちがよろこぶ筈である。あの楽し

 さはなかなか厭きない。むかし我々の子供のころ幻燈といふものがあって、

 我々を喜ばせたるものであった。それ以前には人形芝居といふものがひろく喜

 ばれたばかりか、ゲーテや近松、アナトオルフランスのやうなおとなのなかの

 おとなを喜ばせてゐたものらしいか。紙芝居は人形芝居を幻燈に似て、それよ

 りも更に面白いもののやうに思われる。それ程結構な紙芝居の魅力は何であろ

 うか。あのごく素朴なといふよりも全く原始的に種も仕掛けもなく必要以外の

 一切のものを出来るだけ省き必要なものすらなるべく簡略にしてしまつても

 うこれ以上には無駄を去ることが出来ないといふところまで追ひつめてゐる

 あの方法ある構造のせいではあるまいか。あの面白さの味ひといふものは飽き

 られないほどに単純で一度その要求を感じ、それを味つた以上は全くこれに 

 かれてしまふ性質のものである。云はば渇いた時に山の中で清い泉から飲むや

 うな喜ばしさとでも云ふのであろうか。お茶にもなくお酒にもなく、その外の

 どんな飲みものにもまさるいつまでも飽きない味のあの水の有難さと同じよ

 うな類のものであろう。この本来の性質に鑑みて紙芝居の物語も画も出来るか

 ぎり素朴で味ひにまじりけのないあつさりと原始的な趣のものであるべきで

 はあるまいか。なかに教訓のあるのはもとより無邪気な面白さへあまり強調し

 てはならないのであろう。その製作はわけなく見えてなかなかむづかしい筈で

 ある。

 紙芝居は方法、構造の「簡略さ」、内容の「素朴さ」を極限にまで追求したことに魅力があると、佐藤春夫は評価したのである。立絵といわれた紙人形や幻灯に似た写し絵にないハード面での「簡略さ」が素人の送り手への参加障壁をなくしたし、それから来る接触の安価さや自由奔放の内容、原始的「素朴さ」が紙芝居のオーディエンスを拡大させた。そして数少ない画面に凝縮されたソフトは、能、歌舞伎に見られる受け手の参加を要請した。マクルーハン流にいえば、紙芝居屋による言語的説明はその低精細度を補完したが、基本的には、受け手の参与が必要な紙芝居はクールなメディアであっことはたしかである。紙芝居は単純なソフトで子どもの参加を可能にし、熱中させるのに成功した。   だが、街頭紙芝居は下町のワンパク坊主、ガキのメディアであった。「教訓」ものの導入は、条例制定後顕著となったが、それは業界の自殺行為であった。「原始的な趣」の排除は自滅行為であった。それは同じクールなメディアとして競合関係に入ったテレビに市場を奪われる契機となった。テレビは力道山のプロレス中継や「月光仮面」などで粗暴な紙芝居的画面を演出し、お上品な紙芝居にソッポを向きだした子どもを惹きつけた。経済復興とともに親の所得は上昇し、子どもは自らマンガ雑誌やマンガ本を購入できる子づかいを手にするようになった。外に出なくても、家でテレビが子ども番組で紙芝居の手法を活用したアニメーションを提供しだした。バラックは壊され、家も広くなった。また受験競争の激化で塾通いが増え、遊ぶ時間が減った。なによりも子どもが安心して集り、クルマを気にせず紙芝居を楽しめる場所が都会から消えて行った。 

  

 絵物語と劇画

 紙芝居は幼稚園紙芝居以外は消滅したといってよい。一九四九年には六億の観客を動員できた。テレビ出現後の一九五六年に稲庭桂子は二二、五億人の子どもががいとう紙芝居を見ていると計算している(前掲『教育紙芝居』)。なぜこのメディアがなぜ消え去ってしまったのか。テレビのマンガ、さらにはアニメの放送が紙芝居と競合し、子どもを紙芝居から奪って行ったことはたしかである。それらのテレビ、マンガはマンガ雑誌の掲載人気作品のテレビ化であった。つまり子どものテレビ人気を支えているマンガ、アニメが紙芝居の伝統を引き継いている点を見逃すわけには行かない。

 戦後の漫画出版物は紙芝居の単行本化、さらには雑誌掲載から出発したといって過言でない。永松健夫の「黄金バット」は明々社からベストセラーの単行本となった。

 昭和二二年一二月に集英社の「おもしろブック」シリーズの一冊として出された山川惣治の『少年王者』第一集は大ヒットして三〇万部以上を売ったといわれるが、これは山川の紙芝居作品から生まれたものである。紙芝居で非常な人気を博していたのを小学館の相賀徹夫が目をつけ、傍系会社の集英社から出させたのである。第一集のヒットで山川は次々と描き続け、『おもしろブック』の連載にもなって、第一〇集まで出る(清水勲『漫画少年』と『赤本マンガ』)。 

 絵と文章を組み合せた連続的表現形態の絵物語は紙芝居の直系であった。毎日、翌日の観客動員を図るべく、次回に楽しみを残す起承転結のドラマトゥルギーは、紙芝居に不可欠のものであった。その形態に適合していたのは、単行本よりも雑誌であった。雑誌でも月刊誌よりも週刊誌の方がふさわしかった。したがって紙芝居は雑誌の方により強く継承された「当時流行していた街頭紙芝居が、おりから復興してきた子ども雑誌にスタイルを変えてスライドしていった。それが絵物語という表現だった」(竹内オサム『戦後マンガ五〇年史』)。しかし絵と文章とを限定した描写には限界があったため、『冒険活劇文庫』などの雑誌は長く続かなかった。

 白土三平や水木しげる、小島剛夕らは街頭紙芝居全盛期に加太こうじらの薫陶を受けた。そして紙芝居が衰退期に入る頃にその手法を身につけ、貸本屋でその実力を発揮した。かれらが紙芝居から継承した劇画手法は、貸本屋に出入りする青年労働者に歓迎された。かれらは幼少年の頃、紙芝居の観客であった。白土らの劇画本は五千軒の貸本屋の数だけ売れたという。( 鶴貝俊輔『戦後日本の大衆文化史』)。

 

 メディア王としてのテレビ

 一九五五年四月五日のNTVの夕方六時の番組は「紙芝居『赤十字の父』」であった(週刊TVガイド編集部『昭和三〇年代のTVガイド』)。アニメーションはアメリカの輸入もので、日本製番組は紙芝居流の静止画中心であった。“電気紙芝居”と揶揄されて仕方のない番組やCMが流れていた。街頭テレビによってオーディエンスを確保し、広告主にも評価された一九六〇年からのテレビにとって、もはや紙芝居など眼中になかった。なぜならテレビはみずからの周辺に既存のメディアを吸い寄せ、みずからと親和するメディアには存続を許し、みずからと競合せんとするメディアは抹殺するというパワーをもっていたからである。新聞は紙面にヴィジュアルな要素や、速報よりも解説に力点を置いて、テレビとの競争に生き残りをかけた。それよりもなによりも、テレビ番組欄を新設・拡充させて、テレビ視聴に不可欠な活字メディアとして、共存共栄を図った。ラジオはより細かな階層、地域的番組編成やパーソナル性を強調して、再生を図った。出版界でテレビ時代の申し子となったのは週刊誌であった。テレビ番組情報誌はいうに及ばず、芸能、女性、マンガ、写真などの週刊誌はテレビ的な情報処理やカラー・グラビア重視で新しい市場を開拓し続けた。逆にテレビを当初ライバル視し、協力をこばんだ映画会社の一部は倒産したり、経営危機に追い込まれた。

 一九六〇年からの高度経済成長は、メディアことにテレビの発展に支えられた。一九六〇年代はテレビという受信機とメディアの発展に特徴づけられるテレビの時代といって過言ではない。受信機の普及は全産業の発展に寄与するばかりでなく、家電メーカーという最有力の広告主とテレビとう人気メディアを育成させ、大衆の欲求を喚起し、それを現実の購買行動に転換させるのに寄与した。

 テレビ時代に成長したメディアは広告メディアとして広告主や広告会社の期待に応えられるものであった。新聞も増ページ分の大半は広告欄であったし、民放のラジオもテレビもその収入のすべてが広告収入であった。週刊誌がセグメント化を達成できたのも、その読者が購買力のある階層として広告主に評価されたためであった。メディアはその活動を通じて、読者層、視聴者層という受け手を獲得し、その受け手の購買力を広告主に売ることによって、広告収入をあげることができた。

 一九六〇年代から七〇年にかけて、白黒テレビからカラー・テレビへの転換を巧みに達成できたテレビは、広告の時代を象徴する最有力のメディアであった。テレビの時代=広告の時代という等式も成り立った。とくに視聴率に集約された大衆視聴者を広告主に高価に販売することを最大の営業目的とし、その目的を達成できた民放テレビは、高度成長に貢献した最大の広告メディアであったことはたしかである。

 しかし八〇年代に入ると、テレビにもかげりが生じてきた。視聴時間の減少、視聴率の低下の顕在化は、地上波の民放テレビの経営停滞となってあらわれた。ビデオやCATV、放送衛星などニューメディアの誕生が、テレビの王座を揺るがしかねない状況を生んだ。

 

 

エピローグ

 

紙芝居とジャパニメーション

 テレビはハイビジョンの開発などによって映画レベルに精細度を高め、マクルーハンのいうクールのメディアではなくなった。あらゆる階層のオーディエンスを対象に多彩な番組を放送し、視聴率をかせいできた。しかし日本のテレビは受像機では世界最高レベルに達しているが、番組ではアニメーション以外、世界のソフト業界から無視されている。

 ジャパニメーションという独自のジャンルの形成に日本テレビ放送局が寄与していることはたしかである。しかし初期のジャパニメーションは経済的に採算に乗せるべく、コマ数をできるだけ減らすように工夫してきた。中小プロダクションに生産を委託するアニメーション番組は、安い労働力に依存せざるを得ない。デズニーのように世界市場でオーディエンスを獲得しているソフトは映画にできるだけ近い動きのある画面をつくった。ところが日本のソフトはコマ数を減らさざるをえなかったため、動きが制限された。そのため紙芝居の手法が導入された。また紙芝居の衰退とともに路頭に排出された画家、作家は、マンガ本雑誌に入れたごく少数を除き、このアニメーションの世界に仕事を求めた。こうして紙芝居の手法がアニメーションのソフトをつくった。それはオーディエンスの参加を求めるクールなメディアであった。視聴者はそのコンテンツに没入できるバーティアル・リアリティが与えられた。つまり少ない予算が紙芝居とテレビとを結合させた “貧困の知恵”を生んだ。ただ、佐藤のいう紙芝居の「簡略さ」、「素朴さ」の手法や伝統はかろうじてアニメーションに引きつがれ、ジャパニメーションを活用化させているといえよう。

 街頭紙芝居は下町の独自の空間が生んだメディアである。その貧しい空間で貧しい家庭の子どもが貧しい予算でつくられたメディアに接した。しかしそれは演じ手と観客が一体化しやすい双方向性の構造をもつメディアであった。一体化した両者は一度その味を覚えると捨てられない心理的、精神的に豊かなメディアであった。紙芝居屋は子どもに喜ばせる工夫をした。戦後に見られた演じ手よりも下町のオーラを愛する下町出身者が多かった。子どもはおじさんのパーソナリティと同一化し、遊び仲間たちとおじさんの到来を毎日待っていた。手づくりの作品を楽しんだおじさんの演技がすばらしければ、拍手を送った。おじさんも子どもの反応に敏感に対応するパフォーマンスを行った。そして終了後は、その日の感激を仲間と共有しつつ明日以降の展開を語り合った。紙芝居はかれらを心情的に結びつける共感のメディアであった。観客と演者がうらさびしい都市お空間を紙芝居の熱狂的な演劇的空間に変えた。メディアのもつ場は街頭紙芝居と教育紙芝居とでは異質であった。後者は前者から屋外性を奪った。屋外性を奪ったが、表現形式が基本的に同一であったため、プロパガンダ、あるいは教育のメディアとして共感をかちえ、大きな影響をもった。だからこそ戦中は軍部、政府が利用し、戦後はGHQと左翼陣営との緊張が高まった。

 テレビは教育紙芝居よりも一層、空間メディアとして発展した。当初、街頭テレビで視聴者を獲得してからは、家庭でのテレビの普及に全力をあげた。家庭にテレビを持たない子どもが、購入した家を集団でまわるいわゆる“テレビ・ジプシー”現象が当初見られた。これは紙芝居視聴仲間の小集団的屋内移動行為であった。しかしこの現象も受信機の一般家庭への普及とともに消え去った。そして小集団的オーディエンス、とくに屋外でのそれはあらゆるメディアにおいて、街頭紙芝居を最後に消滅したといってよかろう。

 テレビのオーディエンスの反応は視聴率の形で計測される。その新技術の開発とともに、テレビのプロデューサーやタレントはその数字に一喜一憂する毎日といわれる。子どもの街頭紙芝居への反応はテレビ・オーディエンスに比べよりシビアであった。なけなしの子づかいをはたく以上、最高の楽しみを求めた。演じ手と観客の一体的共感はそのサービスがすぐれているときのみに発生した。つまらぬ作品をもってきたり、演芸が下手だったり、手抜きを行う紙芝居屋はすぐに明日の収入に差し支えるきびしいしっぺ返しを受けた。それは民放テレビ業界以上に“毎日が勝負”の世界であった。この紙芝居業界の伝統がアニメーションづくりに生かされた。

 テレビは家庭内でも、家族集団視聴から家族一人に一台という個人視聴への形態、つまりカプセル的視聴に変っている。しかしあまりにも送り手から受け手一人一人への一方的な情報の流れと孤独な視聴形態は、オーディエンスの孤独感を深めた。その アンチニーゼ インターネットや携帯電話といった最近のニューメディアの普及である。これらのメディアは双方向性に強味を発揮している。紙芝居を消滅させ、双方向性というメディアの機能をオーディエンスから忘れ去らせた。そのテレビが小集団的連帯を求めるオーディエンスから見離され、視聴時間が短かく、視聴率も低下している。つまり二十一世紀初期のニューメディアから脅威をうけている。これはおごりたかぶったメディア王のテレビへの芝居の逆襲といえなくもない。

 

 コンビニと紙芝居

 スーパーマーケットは街の小商店や駄菓子屋を倒産させた。買い物から井戸端会議のようなコミュニケーションが消え、レジの売り子とのマニアル的会話のみとなった。近年のコンビニの隆盛は街に買い物の場を回帰させている。主婦の地域コミュニケーションがかまびすしく交換される時代が戻るかもしれない。駄菓子屋の子供のにぎやかな声が復活する場になるかもしれない。ともかくコミュニティに限りなく近づいたコンビニなる小商店の空間がスーパーの経営に脅威を与えている。

 テレビは街頭から紙芝居を消滅させた。マイナーな双方向のメディアがマスの一方向性のメディアの台頭のなかで姿を消した。しかし双方向のメディアをもとめるのは人間の本性である。コンビニの室内や駐車場の周辺にミニメディアが出現するかもしれない。それはカラオケかもしれない。いやゲームセンターかもしれぬ。それとも小劇場かもしれない。そして選択肢のなかに紙芝居が出てきても不思議でないミレニアムの現在である。

 

Home