ブラック・プロパガンダ
はじめに
一 第一回番組
パールハーバー以降、アメリカは日本本土へのプロパガンダ活動に本格的に取り組んだ。しかし本土に直接工作をしかけることはできなかったので、ラジオによる情報の伝達に力を入れた。アメリカ西海岸からは短波のみが届いたが、日本政府は短波受信機の使用を厳禁していたため、一般国民への効果的なプロパガンダはむつかしかった。一九四四年夏にサイパンが陥落すると、日本でも中波の電波がキャッチできる距離にあるこの島が、俄然注目を浴びることになった。
アメリカ軍は、放送活動にむけ積極的に動き出した。同年末にOWI(Office of War Information.戦時情報局)が、アメリカからの放送を謳ったホワイト・プロパガンダのVOA(Voice of America.アメリカの声)放送を開局した。約四カ月遅れて四五年四月にOSS(Office of Strategic Services.戦略諜報局)が、日本人の発信を装った謀略の中波ラジオ放送を開始した。これこそがOSSの待望久しかった本格的なブラック・ラジオの幕開けであった(第四章参照)。いずれの放送も日本語で行われたことはいうまでもない。
一九四五年四月二十三日に送られたブラック・ラジオの第一回番組は、日本時間早朝四時からの三十分間であったが、実質の放送時間は二十八分三十秒と記録されている。この第一回分のみ、アメリカ国立公文書館(NARA、National Archives and Records Administration)にその日本語の全文が原稿の形で残されている(図1)。放送原稿は英文への翻訳原稿百二十四回分の全文が残っているが、日本語原稿で残っているのはこの第一回分のみである。
第一回の放送原稿は二部構成になっていた(1)。第一部は行進曲のあと、アナウンサーが日本人グループによる「新国民放送局」の誕生を告げ、続いて「同志」が敗北必至となった日本の国難打開のために早期降伏を呼びかけている。
第一部 (アナウンサー)
『帰還兵行進曲』
行進曲
(約二十秒にして消える)
こちらは新国民放送局であります。
こちらは新国民放送局であります。
当放送局は、国民の意思を代表する放送局であります。我々は、現在我が国の直面する重大なる危機の打開に、微力を尽さん目的をもつて集つた者達の一団であります。
次に我々の同志の一人を御紹介申しあげます。
大東亜戦は刻々に緊迫し我が国は今や、開闢以来、未〓有の国難に直面して居ります。
敵の作戦、武器の優秀、生産力の偉大さは完全に軍当局の予想を裏切りました。
一方敵の爆撃機は、益々猛威をたくましふして、連日の如く我が本土の上空に現れ、悠々として、帝都を初め、各主要都市に爆弾を投下して居ります。
為に帝都の市民は一日として安楽の日はなく、疎開列車に満載され、親子四散の憂き目に遭遇し、あの平和の頃の睦じい一家団欒の風景は消えて跡形もなく、物資の欠乏は日に日に深刻となり、喰べるものも充分口に入らないと言つた悲惨な現実を前にして、希望も光明もない生活を送つて居ります。
大東亜戦勝敗の帰趨は最早明らかとなりました。国民自身が奮起せねば国難打開は不可能の段階に入つたのであります。
かかる状態に直面し、我々は国難打開の一助として、万難を排し、茲に新国民放送局を設立致しました。
現在我国は前古未〓有の危機に瀕して居ります。愛する祖国を是非此の危機から救ひたい。否、そればかりではない。愛する国民同胞が将来再びかゝる危機に遭遇する事がない様に、平和と幸福を享有し得る様に、何とかしたいと言ふ気持を抱いた、真に国を愛する日本人の一団が、集つて設置したのが此の放送局でありまして、私も其の一員である事を光栄とするものであります。此の日本人の一団が、愛する祖国に蔽ひかゝる危機について、幾度となく語り合つた結果、必ず達する結論は、祖国を救ふのは国民自身であると言ふ事実でありました。この結論を、最も短い時間に、皆さんの最も多数に御伝へするには、ラヂオの外ない事を悟り、我々は茲に此の新国民放送局を設置したのであります。
放送を始める段取りになるまで、そこには幾多の艱難や障碍がありました。然しかくして今や電波を通じて皆さんに呼びかけ、祖国に対する国民の義務の一端たりともを果すことの出来るのは、局員一同、無上の欣快とする所であります。我々の念願とする所は、皆さんの御援助を得て、「明日の日本」、『明日の日本』の土台を築きたい事であります。我々は切に皆さん、即ち真に国を愛する日本人の支持と援助を、切に必要と致します。
新国民放送局は、其の目的達成の為には、どんな困難にあつても妨害を受けても、決して放送を中止しません。大和民族の赤い血が、真の日本人の血管に脈うつ間は、何者を以てしても、我々国民放送局の声を押へる事は決して出来ない事を、茲に皆さんに御告げしたいのであります。
我々は毎朝此の時間に放送して居ります。
必ず御忘れなく我々のプログラムを聴取して下さる様御願ひ致します。
第二部はレコードを流したあと「新国民放送局」の指導者「大石利夫」の次の長大な演説放送となっている。
第二部
引つゞきレコード音楽を御聞かせ致します。
新国民放送局の音楽放送は、局員一同が持ち寄つたレコードによるものであります。
設備も悪く、放送技術も未熟でありますから、皆さんに御満足の行く様な放送は出来ないかも知れません。
然し、我々は、昔懐しい音楽を一枚でも多く、皆さんと一緒に、楽しみたいといふ気持で、このレコード放送を致す次第であります。
一、曠野に咲く花
二、小原節
次に、我々仲間の指導者の一人として恒に国難打開に粉骨砕身、あらゆる艱難と闘つて居られる大石利夫氏を御紹介致します。
大石氏の肺腑を吐露するが如き一言一句は真に日本を愛する国民として此の一大危局に対処する最も正しい、心情溢れた日本人の叫びであります。
若し時間が許すならば、毎日連続的に“明日の日本”と題しあらゆる角度より問題をとらへて検討して戴きます。
では大石さんどうぞ
皆さん
皆さんにとつて、耳新らしいこの、新国民放送局とは、其の名の示す如く、新らしい、国民のための、国民自身の手による、放送局であります。
当放送局は、我国防衛陣の数々を、次から次へと米国に奪取され、しかも、何等施すべき術を知らず、右往左往の態たらくにある軍、並びに、政府当局の醜態に対し、祖国の危機を座視するに忍びず、『蒼生立たずんば国を如何せん』の意気をもち、一死報公の念に燃えて、決然と立ち上つた日本人の一団によつて、設立された放送局であります。
皆さん
本年初頭以来、我が国は、有史以来の一大国難に直面して居ります。この国難は、四百余州をこぞり、十万余騎をもつて、我が国に押しよせて来た、興安四年の、かの元の来襲に比しても、遥かに、恐ろしい一大国難であります。
元寇の役は、我が国側から、手を出さないのに、侵略的な元の方から、兵を起してきたものでありました。
今回の国難は、軍部が、真珠湾奇襲作戦によって惹起した大東亜戦の結果として、我国を襲つたのであります。
今から考へれば、まことに、夢のやうであります。
敵米英の虚をついた軍部の作戦は効を奏し、半、事なれりの感が、一般国民の間にさへ、広く行き渉つたのは、僅か三年半たらず前のことなのであります。
昭南港の陥落を機とし、東条を首班とする、時の軍部内閣が、戦勝の波にのつて独裁の徹底化を企図し、総選挙を決行、国民の輿論機関たる衆議院の議員の半数近くを、新顔の一族郎党によつて奪取し、その地歩を固め、意気揚々と、我々国民に君臨したのは、タツタ三年前であります。『大東亜共栄圏の確立は、最早や時の問題である、必ず成功する』と軍部は、我々に向つて豪語しました。
だが、これは重大な誤算であり、痴人の夢であつたのであります。
米英がヨーロツパにおいて、ソ聯と組んで、我が国の盟邦ナチス独逸を押すかたはら、我国に対する戦備をととのへ、攻勢に出始めるや、戦況は徐々に変化を見せてきたのであります。
特に、資源の豊富、生産の増大を誇り、且つ、真珠港奇襲によつて独立国の自尊心を傷つけられた米国は、全力をあげて我国に反撃してきました。その結果、一昨年の夏を契機とし、早くも、戦況は我国に不利となつたのであります。爾後、我軍は至るところの戦ひに利なく、敗退に敗退を繰りかへし、既に幾多の城砦を失ひ、我が国は恐るべき危機におとしこまれたのであります。
くりかへして申します。僅々この三年の間に、我が日本の国運は、興隆の絶頂、希望の頂点から、暗黒と失望と不安のドン底へとつきおとされたのであります。
皆さん
我々国民は、大東亜戦完遂の為には、足らざるを尚恐るゝ如く、命これ従はしめられ、文字通り、臥薪嘗胆のあけくれを、甘受せしめられてきました。国民は、持てるものの全てをこの戦争の為に捧げしめられてきたのであります。
それは、政権を担当する軍部が、最後の勝利を保証すると共に、これに疑ひをはさむものに対して、徹底的な弾圧を加へ、有無をいはせなかつたからであります。
にもかゝはらず、米軍のルソン島上陸となるや、本年一月の議会において、今は辞任した、時の小磯総理大臣は、戦況をかくあらしめた責任は、国民全体のものであると、申したのであります。いひかへれば、国民の協力が足りぬから、こうなつたのだといふのであります。なんといふ言辞でありませう?
皆さん
この敗戦につぐ敗戦の責任は果して国民の負はねばならぬものでありませうか? 我々国民は、それ程、呑気にかまへていたでせうか?
我々から申しますなれば、総理大臣の言は、戦況をかくあらしめた軍部、政府当局の、責任回避としか解釈できないのであります。
軍であらうと、政府であらうと、その方策が国民の納得の行くものでありましたなれば、いはれなくとも、尊敬と信頼を惜しまない我々であります。
当局は敗戦の兆 明らかとなつた今になつて、責任を国民の上に転嫁して来ました。
皆さん、潔よく国民の名において責任を引きうけませう。一旦、責任を引きうけたからは、国民の責任において、刻下の時局に対処せねばならぬことは、論を俟ちません。
我々は、最早、鞭々と軍部の無能に国家を委ねて置くことは出来ません。軍及び政府の呼号する東亜の王道楽土は、明らかに痴人の夢でありました。今や我等の愛する国土すらが焦土と化しめられんとしてゐるのであります。
我が新国民放送局々員一同は、過去三年間の戦争の経過に徴し、祖国の前途危しとの思にかられ、マイクを通じて祖国の皆様に呼びかけるものであります。
如何にすれば、祖国の危機を救ひ、日本を更生せしめうるか?
『明日の日本』といふ題の下に、今後、毎朝、定刻に当放送局は、皆様に呼びかけると共に、進んで皆様と協力し、国民の責任において戦争の終結、ひいては明日の日本の更生を、実現せんとするものであります。
大石の演説の後に、レコード音楽を流し、アナウンサーが放送の継続を告げ、今後の聴取を求めている。
只今御聞きになつたのは、新国民放送局創立者の一人、大石利夫氏の御話でありました。
氏は、我々国民が現在直面しつゝある色々な問題、我が国の将来の見透し等について、時間さへ許せば、毎日、『明日の日本』といふ題の下に、御話しをされる計画であります。
国を憂へ、国民の将来を思ふ氏の、心情を吐露した言は、必ずや皆さんの御共鳴を得る事と信じます。明朝の大石氏の御話しを御待ち下さい。我々は同氏の御話の中に、困難打開への暗示があることを確信してやみません。
こちらは新国民放送局であります。
こちらは新国民放送局であります。
只今より今一度レコード音楽を御送り致します。
我々が、レコード放送を致しますのは、我々局員一同が持ち寄りましたこのレコードによつて、現下の必迫した重苦しい空気の中に、皆様方と共に幾分たりとも心のゆとりを求めたいからであります。
一、涙の渡り鳥
是を持ちまして本日の放送プログラムを終ります。
茲で新国民放送局を設置する様になりました事情を今一度簡単に申し上げます。
現在我国は前古未曽有の危機に瀕して居ります。
愛する祖国を前非此の危機から救ひたい。否、そればかりではない。愛する国民同胞が将来再び掛る危機に遭遇する事がない様に平和と幸福を享有し得る事がない様に、何とかしたいと言ふ気持を抱いた真に国を愛する日本人の一団が集つて設置したのが此の放送局であります。私は其の一員であることを光栄とするものであります。
此の日本人の一団が愛する祖国に蔽ひかゝる危機に就て語り合つた結果必らず達する結論は、祖国を救ふのは、国民自身であると言ふ事実でありました。此の結論を最も短い時間に皆さんの最も多数に御伝へするには、ラヂオの外ない事を悟り、我々は茲に、この新国民放送局を設置したのであります。
放送を始める段取りになるまで、其処には幾多の困難や障碍がありました。然しかくして今や電波を通じて皆さんに呼びかけ、祖国に対する国民の義務の一端たりともを果す事の出来るのは、局員一同、無上の欣快とする所であります。我々の念願とする所は皆さんの御援助を得て『明日の日本』、明日の日本の土台を築きたい事であります。
我々は切に皆さん、即ち真に国を愛する日本人の支持と援助を、切に必要と致します。
新国民放送局は、其の目的達成の為には、どんな困難に会つても、妨害を受けても決して放送を中止しません。
大和民族の赤い血が真の日本人の血管に脈うつ間は、何者を以てしても、我々国民放送局の声を押へる事は決して出来ない事を、茲に皆さんに御告げ度いのであります。
我々は毎日この時刻に放送して居ります。
必らず、御忘れなく、我々のプログラムを聴取して下さる様御願ひ致します。
(行進曲)
こちらは新国民放送局であります。
こちらは新国民放送局であります。
(行進曲)
放送局は「新国民放送局」と称していた。英文では“The Voice of People”と訳されている(2)。各番組は前半(第一部)と後半(第二部)に分かれていた。第一回分は第一部が十二分十秒、第二部が十六分二十秒の計二十八分三十秒の放送時間であった。
二 放送された音楽
第一回から第百二十四回まで、放送開始と放送終了時に必ずテーマ音楽「帰還兵行進曲」(March of the Returning Soldiers)のレコードが流れた。この曲の内容、作曲者、演奏者などの情報は残されていない。
第一回の放送に見られたように、番組には途中にいろいろな曲が挿入された。とくに前半と後半の区切りの部分には、必ず一〜二曲のレコードが間に入った。開始当初は少なかったが、エモーショナルな内容の多い後半部分には、回を重ねるごとに効果を高めるための音楽が使われるようになった。試みに第一部の番組に使われた曲名をアト・ランダムに拾い出してみよう(カッコ内の歌手、作詞・作曲者名等は筆者が補った)。日本の歌謡曲、民謡、童謡からポピュラーなクラシック、ワルツなども使われている。ほとんどが一回かぎりの放送であったことがわかる。
OSS資料によると、戦中の日本で放送禁止となった歌を取り上げたという。厭戦的、享楽的な曲を意識的にピックアップしている。戦中聴くことのなくなったこれらの“なつかしのメロディ”が日本人の耳をそばだたせ、ブラック・ラジオに親近感をもたせようとの計算があったことは確かである。なお流行歌で見るかぎり、全てが開戦前にヒットしたものである。これらのレコードはアメリカ西海岸の日系人の店や住居から入手したのであろう。ところが開戦とともに戦中の作品のレコードは入手難になったことも推測される。番組番号 曲名
一 曠野に咲く花(美ち奴唄、古賀政男作詞・作曲)、小原節(新橋喜代三唄、山田栄一編曲)、涙の渡り鳥(小林千代子唄、西条八十作詞、佐々木俊一作曲)
二 愛染夜曲(霧島昇、ミス・コロムビア唄、西条八十作詞、万城目正作曲)、支那の夜(渡辺はま子唄、西条八十作詞、竹岡信幸作曲)、汽車ごっこ、あれあれ飛行機
二〇 箏曲“六段”(八橋検校作曲)、立派な兵隊(大沼哲作曲)
三六 霧の波止場(上原敏唄、坂口淳作詞、菊地伝作曲)、裏町人生(上原敏、結城道子唄、島田磬也作詞、阿部武雄作曲)、里恋峠(田端義夫唄、宮本旅人作詞、陸奥明作曲)
三七 懐しのボレロ(藤山一郎唄、藤浦洸作詞、服部良一作曲)、お軽勘平(義太夫節)
五七 支那のランターン(高山美枝子唄、西原武三作詞、江口夜詩作曲)、旅なさけ(関種子唄、藤田まさと作詞、福田幸彦作曲)
五八 帰ろう帰ろう、梅にも春(端唄)
七八 お夏狂乱(清元、常盤津節)、越後獅子(長唄、地唄)、人生の丘(渡辺はま子唄、久保田宵二作詞、江口夜詩作曲)
七九 スケルツォ・フィナーレ、酒・女・歌(ヨハン・シュトラウスのワルツ)、芸術家の生涯(ヨハン・シュトラウスのワルツ)、ソルベーグの歌(グリーク作曲)
八四 プライズ・ソング、楽しきわが家(茅野雅子作詞、成田為三作曲)
九七 二人きりなら(美ち奴唄、島田磬也作詞、古賀政男作曲)、カルメン組曲(ビゼー作曲)
九八 宵待草(竹久夢二作詞、多忠亮作曲)、カルメン組曲、密輸者たちの行進(ビゼー作曲)
(1) 以下の放送原稿は、旧字を新字に変えたほかは、仮名遣い等は基本的に原文の表記を忠実に再現した。文中曲名の上の数字は挿入曲の順番を示している(これも原文のママ)。
(2) 1st Broadcast, RG 226 Entry 139 Box 120 Folder 1639.
第五章 中国戦線のブラック・ラジオ
一 SACO内部の対立
SACOのねらい 蒋介石率いる中国の国民政府は、日本軍やその支援で成立した汪精衛(兆銘)の南京政府(連合軍のいう傀儡政府)に追い込まれて、奥地の四川省重慶に首府を移していた。連合軍は、アメリカが中心となって、インド・アッサム方面からビルマ北部を経て雲南省に入る蒋介石支援のルート(援蒋ルート)の開発を進める一方、CBI(中国・ビルマ・インド戦域)の中国軍にアメリカ装備の近代化を施していた。またアメリカ政府は、国民党と中国共産党の対立解消(国共合作)の方向に基本的に動いていた。それはアメリカ軍事視察団(ディキシー・ミッション)の中国共産党根拠地延安への派遣に見られた。さらに一九四四年はじめには、重慶に拠点を置くアメリカの陸海軍に加えて、OWIやOSSの機関も国民政府や国民党との共同作戦に次第に本格的に取り組みはじめた。
一九四四年四月の重慶におけるリットル少佐と軍統代表戴笠との会談によって、SACOとOSSの実務面での協定がMO面でも結ばれる運びとなった。SACOは軍統とアメリカ海軍との軍事協定により一九四三年七月に発足していたが、ドノバン長官の戴笠などへの働きかけでそこにOSSが参加し、主としてMOの分野で協力することとなったのである。四四年四月の協定では、MOの代表にはSACOの中国側人物、副代表にはOSS側の人物が就くこと、専門家や輔佐は中国側・OSS側双方から出し、協力し合うことになっていた。“大東亜共栄圏設立”のようなプロパガンダを共同で撃破し日本の軍事勢力を中国で打倒する、つまり破壊的な心理戦争を継続的に展開するのがSACOの目的とされ、次のようなメディアをMOで使うと記している(1)。
一 デマ
二 ブラック・ラジオ
三 印刷物
四 その他(敵の支配者の信用をなくしたり、排除するために地下戦争に有効な欺瞞的手段、賄賂、特殊な武器を含む)
このうちブラック・ラジオについては、次のように明記されている。
一 占領下中国、朝鮮、台湾、琉球、日本本土の敵にむけたブラック・ラジオ局を自由中国(訳者注−−日本の非占領地域)において、設置する。
二 OSS側では以上の作戦に必要で適切な設備を全て提供する。また経験あり能力のある人員をも提供する。中国側とOSS側は全ての放送局の設立や維持に共同の責任をもつ。OSS側は傍受や方向探知に関連した設備を提供する。
三 必要な人員や資材が中国に届くとすぐに、最初のブラック・ラジオ局を福建などの海岸地域に設立し、活動を開始する。その場所は軍事的、技術的観点から見て敵と戦うのに最適なところである。
四 中国側もOSS側も台本づくり、傍受、放送、翻訳に必要な人員を提供する。
五 中国側もOSS側もすべてのブラック・ラジオ活動の秘密性、安全性を図るのに責任をもつ。双方とも常時任務につくが、中国側は昼夜、ラジオ活動に軍人の警護を十分に提供する。
軍統とOSSの対立 このような協定でOSSとSACOとの共同作戦はスタートした。実際に、SACOではビラ、ポスターなど印刷物ではいくつかの傑作を生んだ。「東亜共栄圏の図」(図26)は、日本を象徴する盆栽の松の木が広く東アジア全体に深く根を張り、吸血鬼のごとくその養分を吸い尽していることを示している。ここでは漢語版を掲げたが、英語、インド語版などもある。ガリ版二ページの「兵士平和聯盟ニュース(第十号)」(図27)は比較的新しい戦況を報じており、文章もこなれている。SACOが日本兵捕虜の協力を得て活動していたことを示唆している。
ところで、OSSとSACO双方の信頼感はなかなか高まらなかった。それどころか、中国側ではSACOに派遣されたOSSの責任者が中国側に無断でたびたび更迭されること、そしてアメリカ側がインド、ビルマ戦線にも関心をもち、中国戦線のみを活動領域としないことに不満をもった(2)。またもともとSACOをつくったアメリカ海軍側では、新興のOSSへのライバル意識とセクショナリズムがあって、この協定の遂行に消極的であった。
さらに中国側の責任者戴笠は、OSSよりも中国側諜報機関の軍統の方が中国の実情を把握しているので、中国の諜報活動へのOSSの積極的参入は不必要との認識をもっていた。
一方、OSS側では、中国側の背後にアメリカ海軍がいて、OSSの妨害をしているとの見方が強かった。また、中国の方が最終権限をもつ協定であったため、中国側の内部事情で活動が左右された。したがってOSS側のイニシアティブが発揮されにくい協定であった。
ブラック・ラジオで見てみると、〇・二五キロワットの低出力の局を四四年夏までに、七・五キロワットのものをその後に設立する手はずであった。四四年十一月、CBI戦域ではOSSは図28のような送受信ネットワークを建設しており、これに乗った形でラジオ活動を行うことになっていた。基本的な要員と日本語要員はOSS側で、それ以外は中国側で獲得する約束であった。日本語要員の必要が生じたときは、マリーゴールドとコリングウッドのプロジェクトから提供することになっていたと、オーチンクロスの「最終報告書」は記している(3)。
ところが実際に協定の内容を詰める段になると、戴笠は重慶郊外のハッピー・バレーにあるSACOの本部が全ての権限を握ると主張しだし、昆明にあるOSSの中国本部の方針が無視された。ブラック・ラジオの責任者としてオーチンクロスが四四年九月に中国に到着し、重慶の本部に具体案を出してもSACOは協力的ではなかった。たとえば中国側の約束したラジオ要員を十二月まで訓練しなかった。しかもOSS側から見て、中国側のラジオ技術力や心理戦争へのモラールは低かった。たとえばOSS側が一週間ほど昆明で訓練しても、彼らは無断で重慶に帰る始末であった。あげくに、中国側がパイロット作戦として設置した三つの施設は、日本軍の急襲で捕獲されてしまった。
OSSのSACO離れ ブラック・ラジオの活動に意欲を燃やして昆明と重慶を往復したオーチンクロスも、中国側の非協力ぶりに業をにやした。彼はワシントンのリットルらに対し、ラジオ活動をSACOから切り離し、OSS単独で昆明で行うことを強く要求した。リットルらも戴笠に強い不信感をもち、開局の遅れにいらだっていたことも手伝って、オーチンクロスの提案を受け入れた。
ブラック・ラジオばかりでなくMO作戦全体が一九四五年一月末からSACOを離れ、OSSの手で遂行されることになった。OSSはアメリカ空軍と協定したAGFRTS(Air and Ground Forces Resources Technical Staff)を推進し、それを基盤に活動しはじめた。OSSは昆明に本拠を置くアメリカ第十四空挺部隊とともにSACOとは独立した地対空の情報作戦協力やMO活動を行い、次第にその比重を高めて行ったが、MOの内容、とくにブラック・メディア活動ではSACOのそれと大差なかった。しかし、以下に紹介するような秩父宮のブラック・ビラ(図29)や偽造切手(図30)、偽造パス(図31)などで注目される作品ができた。
ブラック・ビラは四五年にOSSの工作隊が上海周辺に散布したもので、秩父宮が軍閥によって監禁され、釈放後上海に来て、英米との和平活動を行っているとのまことしやかなデマ言説を流布させようとした。OSSは秩父宮を和平派ととらえていたようであるが、天皇や皇族をプロパガンダに利用することは、他のアメリカ・プロパガンダ機関と同様に禁じられていた。したがってこのビラは珍しい事例である。
偽造切手は東郷元帥の五銭切手である。ミシン目のタテ、ヨコが重なった部分が乱れているため、ニセモノであることが判明する。この切手は福建省の前線の日本軍へのプロパガンダの手紙を送るために使われた。偽造パスは日本本土の被爆者が地方へ疎開するための無料切符である。
二 コロンビア・プロジェクト
OSSがSACOと手を分かち、昆明で独自のMO活動を開始した頃、日本軍は膠着した中国戦線を打開しようと、華北から広東、香港までの鉄道沿線をとぎれることなく支配する“大陸打通作戦”を展開していた。実際、日本軍は広西省の桂林、柳州を占領し、昆明にも進出する勢いを見せていた。制空権を奪ったアメリカ空軍に援護されたものの、中国軍の損害は大きかった。OSSは昆明の郊外に本部(図32)を構え、華南各地の中国軍の支援を本格化しだした。MO活動のためのラジオ送信所や施設も急ぎ設置された(図33)。桂林などの前線にもOSSの活動を支える送受信施設がつくられた(図34)。
先の「最終報告書」で、オーチンクロスは次のようにコロンビア・プロジェクトの経過をまとめている(4)。
一九四五年二月から八月。SACOから離れた中国戦線のブラック・ラジオの作戦は、コロンビア・プロジェクトといわれた。それは二月中旬に練られ、OSSのワシントンと中国の作戦本部に承認された。この計画の第一段階(昆明からの〇・五キロワットの送信)は全体として承認された。第二段階(沿岸地域からの七・五キロワットの送信)も承認された。モルウッドはオーチンクロスとともにこの計画に従事するため、SACO本部から昆明に配転となった。日本軍からの攻撃の恐れがなく、国民政府軍からも干渉の少ない昆明の地が選ばれ、OSSは他のアメリカ軍機関とともに昆明に移った(図32)。これらのプロジェクトは三月中旬にすべて受理された。承認を予想して、中国人の言語要員はすでに募集中であった。コロンビア・プロジェクトの本部は昆明のカントリー・ハウス構内に設置され、ラジオの送信所の屋根には、長いアンテナが張られた(図33)。三月二十五日には九人の要員が任務につき、彼らの訓練が始まった。後にこの中国人のグループは全部で十六人となり、四月十六日に放送活動を始めることになった。しかし使用する周波数の通信隊による使用許可が四月二十七日まで出なかったので、作戦開始は翌日の二十八日となった。全部で四つの異なる番組が自由放送局の覆面をもって、コロンビア・プロジェクトのもとで誕生したのである。これらは機械の故障や他の緊急事態によって何度かの中断はあったが、週七日の単位で実施された。桂林など前線には、ラジオの送信所が設置された(図34)。四つの作戦は以下のものであった。
チャーリー作戦
広東むけの広東語の放送。四月二十八日から八月十七日まで、全部で九十九の台本を使用。十五分間の番組を一日三回放送。作戦の概要は広東あたりの日本人に対するゲリラ活動を地下グループに働きかけ、受け身の非協力から積極的な単純破壊活動まで、あらゆるタイプの抵抗活動を激励することであった。
ウィリアム作戦
武漢むけの放送。六月六日から八月十七日まで、全部で七十の台本を使用。各番組は十五分間で、一日三回放送。内容は密輸を仕事とする漢口の反骨のビジネスマンに、自分の仕事を宣伝させるもの。“大いに儲かりまっせ”といった雰囲気をわざと表に出した放送は、市民の不服従、買いだめ、掠奪、地下組織活動を促進する刺激剤として利用された。
ハーミット作戦
南京やその周辺むけの放送。六月十九日から八月十七日まで、全部で五十七の台本を使用。各番組は平均十一分で、一日二回放送。占星術のにせ科学、占い、人相見、手相見、骨相見、数霊学の類いに基づくもの。主として傀儡政府の役人が分析、攻撃の対象となり、中国での日本の運命は非常に暗いと判断する予言が定期的になされた。注目すべきは、巨大な破局が(原爆の落ちた)八月第一週に起こると予言したことである。この予言は七月初旬になされた。行動への刺激は迷信と私的利益に基づいていた。傀儡政府への積極的な不服従や単純な破壊活動が奨励された。
JIG作戦
終戦まぎわの八月十一日から十七日の七日間。この番組はマリーゴールドの人員が間に合わなかったので、コロンビア・プロジェクトの要員を使って日本語で放送された。日本軍からの脱走を奨励し、降伏直後に予想される混乱に対応させる番組をつくった。
ペガサス・プロジェクト
三月上旬、観念上のネットワーク(Notional Network)の計画が連合軍中国前線参謀本部に提案されたが、拒否された。しかし五月にその計画はトップ・シークレットとして再審議され、新しい計画が提案された。これは中間的な暗号(訳者注−−ニセ情報を混入させ、日本軍を混乱させることを目的にし、仮想の地域間で行う解読されやすいシンプルな暗号システム)による文書を、前線の実在しない工作員チームに送る四つの別々の作戦から成り立っていた。日本軍の電信傍受隊の目に本物と思わせる最初の作戦は完成した。“ホットな”まぎらわしい情報(これは前線本部からの供給)を軍の直接的な支援作戦と思わせて伝えるこの計画は、終戦時に終った。
結論
(前略)残念なのは、十分な能力を持つ送信機がなかったため、計画実行部隊の一〇%の能力しか発揮できなかったことである。七・五キロワットの送信機が三月上旬に昆明に到着したのに、それを保管する施設がなかったため、終戦まで雨ざらしにされていた。この送信機が使えたら、作戦の能力と効果を物理的に高め、コロンビア・プロジェクトを十分に拡大させたであろう。しかしこれを除けば、一九四五年二月十五日以降の中国のブラック・ラジオ作戦は迅速かつ可能なかぎり展開され、中国戦線でのMOの成功に多少とも貢献できた。
以上が「最終報告書」である。ワシントンから作戦を急ぐよう催促されたOSSの中国前線のオーチンクロス中尉は、第一段階でブラック・ラジオの開局をSACOに働きかけた。だが、OSSと連携していた中国諜報機関軍統の戴笠将軍は、中国側要員の派遣の約束を実行しなかった。そのため、やむなくOSSとしては、独自に昆明でブラック・ラジオを開局することになった。四局がほぼ同時に動き出した。このうちJIG作戦は日本語による日本兵士むけの放送であった。しかしサイパンから日本本土むけになされたブラック・ラジオ作戦に遅れること約四カ月であった(前章参照)。中国戦線での四局は、いずれも日本軍占領地や前線の中国人及び日本人兵士をターゲットにしていた。
チャーリー作戦の番組 チャーリー作戦では、五月、六月のはじめを見ると、次のような内容の番組が流されていた(5)。
五月一日 ジャップから買うな。
五月二日 日ソ中立条約の破棄。日本の最後の審判。
五月三日 広東を長沙のように破壊されてはならない。略奪されぬように持ち物を隠せ。
五月四日 ウー・ホー・タンがゲリラを訪ね、広東のジャップのモラールが崩壊し、自殺が相次ぐとのニュースを持ってきた。今こそ敵に立ち向え。
五月五日 ベルリンの陥落、二羽のチキンのたとえ話。ジャップ・チキンはまもなく死ぬ。
五月六日 ヒットラーの死。ヒムラーの裏切り。すぐにジャップのなかにも裏切り者があらわれよう。
六月一日 ジャップの住民どもは兵士としての徴集を避けるため、広東を離れている。やつらから物を買うときは、たたけ。
六月二日 ジャップは上海警察から銃を回収中だ。やつらを信じるな。ジャップと協力してはならない。
六月三日 ジャップはアメリカと国民政府の旗をつくっている。広東市が解放されたら、連合軍側住民を装って、いち早く立ち去るつもりだ。傀儡とジャップは広東の同じ穴のむじなだ。やつらの計画をたたきつぶせ。
六月四日 東京から日本軍のモラールを高めるため教授たちが送られてきた。ところが汕頭では十七人のジャップが自殺。広東からジャップをつまみ出せ。この正しい情報を近隣に伝えて欲しい。
六月五日 ゲーリングは降伏したとき、戦犯として扱われた。広東の全ての傀儡野郎とジャップを切り離して、彼らがわれわれの方につかないなら、ゲーリングと同じ扱いをしよう。
この番組は現地語のスラングをフルに使って、住民に気やすく接触できる工夫を施している。日本人や日本軍の広東からの脱出計画を、住民レベルの日常行動によって阻止しようとの呼びかけがなされ、ドイツの敗北、ヒットラーの死など日本軍に不利なニュースが織り込まれている。番組に使われたドイツのニュースはサイパン・ブラック・ラジオよりは新鮮である。このような最近の本当のニュースに加えて、デッチ上げのニュースを混ぜている。こうした虚実混交のニュースを使いながら、日本軍への抵抗と反日ゲリラへの協力を広東住民に呼びかける編集方針が貫かれている。
この広東むけブラック・ラジオが、どの程度住民に聴取されたかはわからない。四五年五月のコロンビア・プロジェクトの「月報」は、「対象地域の周辺につくられたOSSの前線施設のリポートは、ラジオの音声は弱いが、聴き取れたと伝えている」と記している(6)。このプロジェクトは〇・五キロワットの出力の送信機によるものであったため、昆明から広東に届くには、短波といえどもかなり無理があった。せいぜい抗日ゲリラへの暗号送信に活用されたと思われる。したがって一般家庭で聴取できるためには、七・五キロワットの送信機の到着を待たなければならなかった。しかしついに使われることがなかったことは「最終報告書」にある通りである。
なお、これら四作戦はオーチンクロス中尉を主任として、二人の白人、それに十六人の中国人が運営していた。中国人のスタッフはモニター、台本書き、出演者から成り立っており、中国最北端を除く各地の方言を扱うことができた。近い将来、朝鮮語のできる要員や日本語の要員つまり日系人や日本兵捕虜も増加させる予定であった。また日系人に同行し、白人スタッフ二人が昆明に七月に来る予定であった(7)。
三 チャーリー作戦とMO
広東地区でのMO作戦 OSS全体の活動の中で、MOは謀略のビラ、新聞、デマなどのメディアを有機的に組み合わせた転覆的な破壊工作活動を任務としている。図35は一九四四年のOSS・MOの広東など華南における全体的な動きを示している。左上の中国人たちは桂林でなにやら情報交換をしている。中国大陸の南北を鉄道沿線でとぎれなく支配せんとした“打通作戦”で南下した日本軍が桂林の一部を占領し、多くのデマを市内にまいた。そこでアメリカ、中国軍の将校は対抗デマや打ち消しデマを一週間で三十ばかり流した。そのうち八つのデマが誇張された形でアメリカ側に戻ってきた。デマに合わせて、偽造文書やビラまき用小ロケットなどの装置が作られた。
図35の左上二番目は桂林と広東の中間点で獲得した中国人工作員を、前線地下本部の訓練所に連れて行く模様を描いている。将校、兵士はトラック、船を使って南下し、また密使が相互に連絡している。三番目は二人の中国人工作員が、広東の秘密印刷工場でビラを印刷している図だ。その集団のリーダーは反日活動家の教授だという。彼らはデマ、ビラ双方を日本軍憲兵の目を盗んで市内にばらまきながら、新しい工作員の勧誘にあたっている。左下の図は、華南の日本側プロパガンダ、諜報の中心地マカオに潜入した“メイベル集団”つまり商人を装った中国人工作員が、桂林、広東、梧州との間で無線機を使って連絡している模様を描いている。彼らは同時にデマ拡散、工作員獲得、諜報入手などの任務についていた。
タートル・ミッション 図35にあるブラック作戦図は、現実には、タートル・ミッションの動きを示したものと思われる。OSSが昆明から各方面に二十人弱のMOのミッション(工作班)を出していたが、タートルというコード名をもつミッションは最も成功したものとして評価されている(8)。
このミッションは広東地区にむけて三月上旬に出発した。その地に根拠地を置き、広東、香港、汕頭など華南の主要都市をカバーする活動を展開、六月までに三十六人の訓練された工作員がこれらの都市に出没した。汕頭の新聞にはいかにも実在する組織であるかのように“反戦同盟”の記事を出した。しかし“同盟”はMOの創作であって、ブラック・プロパガンダのメディアを配布するカバー(隠れ蓑)として使われたものであった。ブラックのポスターなどが香港の同盟通信の告知板に貼り出されたが、日本当局はすぐさまそれらを撤去した。
七月にはタートルは生産と配布を拡大したため、より幅広い受け手をもつメディアにその名が登場した。香港、九竜地区では、タートルの出すMOのメディアが全ての公的場所に大量にあらわれた。スローガンの落書きが建物、劇場、ホテルで見られた。
八月までに、タートルは日本が支配する地域の新聞にブラック記事を浸透させ、一万五千枚のビラには、収容所の日本兵の捕虜から得た情報が掲載されるほどとなった。
チャーリー作戦の位置 先のブラック・ラジオの「最終報告書」にあるチャーリー作戦は、広東地区への中国語放送であった。ラジオは図35に示された四十四年夏から十カ月も遅れて始まったが、四十五年四月の時点でも、日本軍の健闘で南支での攻防図は基本的に変っていなかった。ここへブラック・ラジオが謀略のニューメディアとして登場し、ビラ、デマなどの前線MO作戦を支援することになった。ラジオは、中国人工作員やその背後にいるOSSアメリカ人の双方へ秘密のメッセージを送る役割ももっていた。ラジオからの暗号情報が各種工作を活性化させたことはまちがいない。もちろん中国人住民の世論誘導が、ラジオの主要な役割であったことは言うまでもないが。
華南MO作戦の総括
四十五年十一月二十四日付で中国でのMO作戦についてのやや長文のリポートが出ている(9)。まず冒頭で、MOの基本的目的が日本ならびに日本軍に対する破壊的なプロパガンダ工作を行うことであったと述べる。そこでいう日本には、日本兵、日本人、中国人の協力者、傀儡政府や軍が含まれていた。MOはそれと同時に中国人のモラールを刺激し、彼らの日本人へのレジスタンスを奨励することを目的としていた。MO隊では、ビラ、地下新聞、偽造文書、怪文書の印刷物、ラジオ、デマなどの制作にあたった。しかしSACOとの協定に縛られて、OSSのMO班が独自の活動ができたのは、日本の降伏までの半年間でしかなかった。
印刷物は昆明本部、三つの前線本部、多数の前線で作られた。本部では長文で、時間が限定されない一般的、戦略的なもの、前線では戦術的、直接的、短文のものに分けた。編集物は中国語と日本語で印刷された。本部では約二百万部のプロパガンダ印刷物を作成、配布したが、そこには三つの週刊の地下新聞が含まれていた。前線では一〜二人のアメリカ人の監督を中心に、中国人の工作員が作成。工作員“細胞”が都市、駐屯地などの敵支配地域に作られ、プロパガンダのメディアは秘密のルートでその地域に運ばれた。
中国全体のMO部門には七十四名のアメリカ人がいた。昆明本部所属のMO部隊には、二十一人のアメリカ人が配置された。そのうち五人はブラック・ラジオの制作を担当した。二人が日本支配地区に潜入し、残り十四人が三つの前線で活動に従事した。
これらの作戦の効果は、心理的な影響の測定が困難なため評価しにくいと述べながら、華南関係で十項目の結果をリポートは列挙している。
一 広東、香港などで五十六人の工作員のネットワークができ、ブラック作品の配布の秘密活動を実行。
二 香港、九竜では、ホテル、商店、市場、散髪屋などでビラを配布。
三 日本軍がMO隊の摘発に乗り出し、九竜では新たな憲兵駐在所や歩哨所があらわれた。
四 九竜では日本当局がMOビラを届け出た者に米を特配。
五 八月はじめ日本当局は香港で防諜組織を作り、MO隊への反撃プロパガンダと破壊作戦の摘発に動き出す。
六 衡陽では、一万枚のビラ配布後に三百人の傀儡政府軍が投降。そのビラには、日本軍との今後の協力は危険との内容があった。一方、日本軍はビラを読む者は処刑するとの警告を出した。
七 衡陽では、多数の傀儡政府軍と朝鮮人兵士が脱走。朝鮮人脱走兵はさっそく日本軍にいる朝鮮人兵への手紙を書く任務を与えられた。その手紙は工作員が配布。
八 衡陽では三紙一万二千部を配布。
九 衡陽の工作員は、重慶ラジオから原爆ニュースを聞いた数時間後に号外を発行。
十 長沙で“抗日組織”を装った組織がビラを出したところ、日本軍は全市の印刷所や倉庫を捜索。
四 コロンビア・プロジェクトと鹿地亘
アメリカ各機関の鹿地詣で 昆明から発信されたブラック・ラジオの三波はいずれもが中国語の方言を使い、中国人を対象としたものであった。したがって台本書きなど編集作業を行ったのは、中国人であった。もちろんグリーンズ・プロジェクトと同じように、その内容を中国語が理解できる白人がチェックしていた。日本軍のプロパガンダに対抗するブラック活動を行うために、昆明のMO部隊には、中国や日本本土でなされている日本語放送の傍受活動を継続的に行っていたが、それも白人が担当していた。
したがってコロンビア・プロジェクトには、初期の段階では、日本人や日系人が直接関与していなかった。しかしOSSでは、本土の日本人や中国前線の日本兵むけの日本語放送を当初から想定した準備をしていた。実際、SACOとの協定では、上海付近からの日本の本土むけの放送の計画を謳っていたのである。七・五キロワットの送信機が設置された段階で、マリーゴールドやコリングウッドの日系人を呼びよせる計画があったことは、先の「最終報告書」にも出ていた。そしてそれを裏づけるように、コリングウッドとグリーンズのプロジェクトの日系人側の実質的指導者だったジョー・コイデを、サイパン・ブラック・ラジオが成功する見通しのついた四十五年五月頃に、サンフランシスコから呼び寄せる計画もあった。
ジョー・コイデの能力やOSSへの協力ぶりがOSSによって高い評価を受けたことは事実であるが、しかし鹿地亘(図36)ほどの実践的パワーと組織力、動員力をもつ人物は、アメリカの日系人社会には見当たらなかった。鹿地は東大文学部卒業後、マルクス主義芸術運動に参加し、日本共産党に入党した。まもなく検挙され、転向ののち釈放された。一九三六年に上海に渡り、魯迅の知遇を得た。さらに、日本軍を避けて上海から香港、武漢、重慶に行く。そして国民政府と協力しながら、国民政府軍に捕えられた日本兵捕虜を教育し、日本人民反戦同盟を組織。日本兵捕虜と一緒に前線に赴き、日本将兵への反戦プロパガンダ活動を行った実績があった。だがその後、鹿地や彼の捕虜グループが国民政府に批判的であるとの理由で、政府によってその活動が禁止され、彼のグループも再び鎮遠の捕虜収容所に入れられていた。そして彼は妻の池田幸子ら数人と重慶で独自の活動を行っていた。こうした経緯があったので、重慶を訪れた対日の諜報やプロパガンダの専門家ならだれしもが鹿地の存在に気づき、その利用を考え、接触を試みようとした。鹿地の回顧録によると、在華イギリス大使クラーク・カーが一九四一年末、アメリカ国務省書記のジョン・エマーソンが一九四四年十月と十二月に、同じく国務省書記のジャック・サービスが一九四五年五月に彼と会っている。
OSSの鹿地へのアプローチ OSS関係者では、一九四三年に、ドノバン長官の使者として、ファース准将が来ていた。さらにリットル少佐がOWI幹部のフィッシャーとともに一九四四年春に訪れている。第二章で紹介したCBI視察報告書では、鹿地訪問の記述はないが、鹿地によれば、彼は日本軍への宣伝活動で協力してほしいと申し入れたらしい。「仕事の内容は日本字新聞の発行で、必要な資材、資金をすべて米国側でまかない、日本側からは編集スタッフを提供する。新聞の編集権は鹿地にまかせる、というのであった」。そこで鹿地はこれが鎮遠の同盟員を再解放する願ってもない機会になると判断し、米国側から国民政府に再釈放の件を交渉することを条件にして、提案に同意したと回顧録で述べている(10)。
鹿地の回顧録は続いて、リットルが帰国した後、後任者のデューリンが、具体的な打ち合わせにたびたび訪れてきたことを記している。その最初の時期が四五年三月三十日以前であることはたしかである(11)。鹿地は反戦同盟から十五人の日本人をこの事業に参加させるため、収容所から彼らを出すのに協力してほしいと要求した。これに対し、デューリンは、出版活動の基地が雲南省昆明の米軍基地付近に設けられ、一切の準備は進行しており、日本側つまり鹿地側に協力する米国側スタッフとしての藤井周而、八島太郎ら五人が新聞活字をもって、本国を出発したと伝えたという。
これを裏づけるOSS資料がいくつかある。そのうちデューリンが四十五年六月四日にワシントンMO極東本部のケネス・マン大佐とリットル中佐あてに送った文書「鹿地と一世、アメリカからの二世・一世グループ(12)」、「鹿地との予備会談(13)」の二点を全文訳しておこう。
鹿地と一世、アメリカからの二世・一世グループ
一九四五年六月四日
ご存知のように、われわれはまだ彼ときっちりとした契約や協定を結んではいないが、鹿地亘は大変役に立つ人物である。
彼は現在重慶にいるので、私が数日中に訪ね、昆明に来てしばらく滞在するよう要請する。昆明でわれわれは最終協定を結び、彼の小さな捕虜グループを使って日本語のメディア制作の最初の計画に着手することになろう。その後、彼を重慶にもどし、彼のグループを昆明に連れて来て、腰を落ちつけて基地をつくる予定である。
私は鹿地を日本班の長に使う計画をもっている。この班は二つの日本人のグループから成り立つ。その二つとは(1)アメリカからの二世・一世グループ、(2)重慶の鹿地の組織から選んだ数人の捕虜グループである。これら二つのグループを一つの作戦班にまとめ、昆明郊外の安全な基地で生活させ、作業させる予定である。
組織上からすると、鹿地は編集主任のロジャー・スター大尉の配下となろう。もちろん、実際において、彼の任務は全てのOSS部門にたいする日本事情専門のコンサルタントであり、言語の専門家ということである。同様にこのことは、また日本班の全メンバーにあてはまる。鹿地はアメリカ側からはハリー・フォックス氏に直接的に補佐されることになろう。
その専門家集団という性格から見て、日本班は出版部門・ラジオ部門の双方で、高度に本物らしい“ブラック”型の日本語メディアづくりに役立つだろう。さらに私は、戦場での翻訳者かつライターともなりうる能力のあるこの班の全員を、可及的速やかに前線に派遣したいと考えている。
日本班はまた、われわれのラジオ番組に必要な日本語を話す人材を供給してくれるだろう。これは、強い電波で日本や華北に到達する七・五キロワットの送信機を使った放送を始めたとき、とくに重要となる。戦争が近い将来進展を見せたとき、中波で放送できる施設を得ることがさらに重要になる。そうなれば、鹿地や日本班は、政治的知識と言語能力をもつ非常にすぐれた専門家集団を提供してくれるだろう。かかる小集団にとっては、ブラック・プロパガンダの目的に必要な、例えば“新日本”組織とか“臨時日本政府”開設とかいったもっともらしい仮想組織をラジオでデッチ上げるのは比較的簡単なことであろう。
鹿地自身は、平均的な日本人に容易に受け入れられる憲法や政府組織の構想を非常に短時日に提示できる能力をもっていると、私は確信している。
ご承知のように、ワシントンからの最近の電文に示された追加の七人の二世・一世グループの受け入れ承認を、現在中国国民政府やインド政府に求めている。承認が得られれば、彼ら七人の日本人には飛行機を優先的に手配して、一人の有能な将校が護衛につき、七月にアメリカを発つことが可能である。私の考えではザルツスタイン大尉がこれにふさわしい。さらにアメリカの人材の中から少なくとも十人の二世軍人をあなた方が確保してくれると期待している。ドアリング大佐とザルツスタイン大尉の両氏は、この点についての必要性をよく知っている。
昆明にいるMO責任者のデューリンは、ブラック・プロパガンダの作戦にとって、鹿地はむろんのこと、彼が指導する日本兵捕虜集団がきわめて役立つと見ていることがわかる。鹿地らはビラ、パンフづくりばかりでなく、ラジオ番組の台本書き、さらにはラジオ要員として有能と見込んでいる。予想よりも早い終戦の到来で実現しなかったが、日本むけの中波による本格的ブラック・ラジオを担う中心グループとして、鹿地らへの期待は大きかった。なおデューリンは、彼らと国民政府軍とが組んで行ったプロパガンダ実績や経験を調査し、その能力への確信を得たのであろう。また鹿地には、アメリカから飛来する予定の七人の二世・一世グループをも指導する役割をもたせたいと考えている。つまり彼は、捕虜と二世・一世グループを束ねるMOの日本班の指導者としての力量をもっているとの高い評価を受けていることがわかる。
鹿地との予備会談
一九四五年六月二十六日
一 私は当地昆明で鹿地と三日間の会議をもち、彼と彼のグループとの将来の計画について議論した。
二 この会議での話し合いは、一般的な計画についてであり、詰めるところまでには至らなかった。私はわがスタッフの主要人物を全員紹介できた。私は今日重慶に帰り、鹿地との協定の締結の準備を進めるとともに、できれば彼の捕虜グループのメンバーを選抜して、わが陣営のために釈放するよう国民政府に働きかける予定である。
三 OSSと鹿地との公的な関係についていえば、非アメリカ人軍属の雇用の際に行われる通常の契約形態で彼を雇うのが最適なやり方だと私は確信している。鹿地と彼のグループに、なにか特別の地位とか特権を政府の名でもって与えるような契約を結ぶのは好ましくなく、また面倒なことになると考える。
四 鹿地と彼のグループの処遇にかんする私の見解は変わっていない。彼と捕虜たちをアメリカから来る二世・一世グループと合流させ、昆明で訓練した後、前線の工作にこれらの日本の小隊を張り付けるというのが私の考えだ。もちろん、この計画の成否は捕虜を前線の工作に使うことに指揮官の承認が得られるかどうかにかかっている。鹿地のグループが行う組織の再編、プロパガンダ、諜報活動という重要な三項目について鹿地と私は最近議論をかわしたが、私が重慶を訪問した際、彼にはそれに従ってもらうことになろう。
五 重慶滞在中、六〜八人の鹿地のグループを、ごく近いうちに昆明に連れてくることにかんする協定を結びたいと希望している。そうすれば、鹿地は彼らをここに連れてきて、日本人のプロダクションを動かし、日本人によるプロジェクトをすぐに推進してくれるだろう。このスケジュールの下で、彼と支配下のグループが七月末に到着するやいなや、昆明で活動を始める予定である。彼の六十三名の捕虜集団が訓練されたプロパガンディストであり、そのうち三十人は活発な前線工作に十分に対応できるメンバーであるとの鹿地の見通しには、あなた方も興味を抱かずはいられないだろう。
六 捕虜や二世・一世グループの当地での収容地は、現在折衝中で、七月十五日直後に確保できるだろう。
七 「週刊日本兵新聞」という名の新聞を創刊する計画を鹿地と当地で議論したことも、あなた方は関心をもってくれよう。われわれは全体的なフォーマットや内容に合意したが、重慶への訪問の際に、その日本語の試作版を見せてくれる約束をした。私はそれを昆明に持ち帰り、ただちにプロダクションをスタートさせ、鹿地プロジェクトでの最初の日本語作品を示したい。この点で、当地への移送をチャビアで待っているフォックス氏が日本人のプログラムに適任であり、アメリカ側とのバランスをとるのに好都合と私は判断している。
八 重慶から帰ったら、私は鹿地の見解とそれへの対応をまとめる。さらに、その後に行う鹿地との最終協定の結果ならびに日本人プログラムの将来像についての完全なリポートをあなた方に報告できるだろう。
これを見ると、鹿地は六月中旬に重慶から昆明を訪ね、三日間、デューリンと協議していて、彼のグループをも含めたブラック・プロパガンダ活動への参加は大きく前進したように見える。また、二世・一世グループと連携して活動を行って欲しいとのOSS側の提案に、鹿地も異論がないことがわかる。この時点では、捕虜をアメリカ人以外の外国人と見なした雇用形態も問題がなさそうだ。残るデューリンの懸念は、前線の指揮官が彼らのブラック工作活動を承認するかどうかということであった。
デューリンがOSSの中国駐在のヴォルター中尉に送った七月二日付の文書がある(14)。そこでは、鹿地グループの捕虜収容所からの釈放問題が記されている。鹿地が選んだ十人の名前を列記し、彼らの能力と安全性については鹿地自身が保証している。OSSではこのうち五人をできるだけ早く昆明へ鹿地とともに連れて行き、日本語による破壊的なプロパガンダ作品を作らせたいという。残りの五人は鹿地の妻と重慶に留まり、MOのアイデアやメディアをつくったり、収容所との連絡の仕事をさせる。アメリカはいったん釈放した捕虜は戦闘に参加させない方針をとっていた。鹿地グループの捕虜の身分はこの捕虜と同じ地位にするよう、OSSが国民政府に働きかける。それについて国民政府の国防相とデューリンは非公式の議論をしたが、鹿地によると国防相は捕虜釈放に前向きである。最後にデューリンは釈放者の名前が明らかになれば、すぐに前線指揮官に伝えて欲しいと結んでいる。なお、七月四日に二世・一世グループは昆明に到着する予定であった。
デューリンや鹿地の見通しどおり、捕虜釈放までは実現した。ところが問題はその後に発生した。先の鹿地の回顧録によると、まもなく届いた契約書には、「米国政府への忠誠を宣誓」とか「機関の機密漏洩の場合、いかなる処分にも甘んずる」といったアメリカ軍の雇用契約書の項目があった。しかし、彼は自分も自分のグループも蒋政府の傀儡でないと同じように、アメリカ軍の雇われ者ではないし、もちろんアメリカ人でもない。したがってアメリカ政府に忠誠を誓ったり、機密漏洩の処分を受ける筋合いではないと署名を拒否した。デューリンは、署名のない契約は前例がないといって当惑した。しかし八月八日には、次のような合意書が作成された(15)。
OSSと鹿地グループの合意書
一 OSSと協同する鹿地グループのうち、昆明のものをAグループとし、重慶のものをBグループとす。Aグループの責任者を鹿地亘とし、Bグループの責任者を池田幸子(鹿地夫人)とする。
二 A、BグループよりOSSに対しての約束
1 政策的原則において背馳を生ぜざる限り、A、Bグループはアメリカ政府がこの工作継続の必要を認める期間にわたってOSSに協力する。目下、期間を厳格に定めず。
2 A、Bグループはこの工作に関する秘密を絶対に厳守する(工作期間のみならず、将来にわたって永久に)。
3 A、Bグループ各員の行動に関しては、各グループの責任者が一切の責任を負う。
三 OSSよりA、Bグループに対しての約束
1 日本人民運動者の政治条件は国際政局(同盟各国と日本人団体との関係)の発展により、将来の変化あることを予想し、現在の条件で将来を拘束するおそれある一切の制約的条件を設けず。
2 日本人民に対する影響を顧慮し、一切雇用契約の形式によらず、本質的にはOSSが日本人グループと協同して一個の事業に当るものと認める。
3 中国政府との関係および自由日本人組織運動の必要により、工作継続に影響を及ぼさぬ条件の下で、鹿地は工作地点を離れる場合あることを承認する。
4 日本人グループの必要により、工作継続に支障せざる条件の下で、Aグループの人員を交替せしめる場合あることを承認する(ただし双方の協議をへて決定する)。
四 OSSよりA、Bグループに支給される手当
1 鹿地亘と池田幸子に各二〇〇ドルを支給する。グループ各員は目下同盟国側より俘虜と認められているゆえ、金銭による手当を支給せず。ただし衣食住をOSSより支給す(ただし、Bグループにたいしては右費用を支給する)。
2 グループ各員の身分の認定は暫定的なることを承認す。米国政府、国際政局の発展により、将来これらグループ各員の身分上変化を生じたる場合、(四)の(1)は改正されるべきものとする。
一九四五年八月八日
結局、「契約の問題は後まわしにして、紳士協定として、仕事を実際的に進めることにした」と鹿地は述べている(16)。
藤井周而ら七人の到着は遅れ、八月に入ったようである。打ち合わせに鹿地は昆明に飛んで、藤井と会見した。ドノバンも昆明に来ていて、鹿地のことを聞き、外国人亡命者でそんな態度の人物はおもしろいから会いたいといってきたらしい。しかしまもなく終戦となり、鹿地はドノバンとも会わなかったし、「米軍との協同事業は協定に達せず、実を結ばないうちに閉じられた」という(17)。
鹿地やデューリンらは新聞やビラづくりについては記しているが、ラジオについてはあまり触れていない。しかし、鹿地らがブラック・ラジオにも動員される予定であったことは、オーチンクロスが四十五年六月の「月報」で、鹿地グループとアメリカから来る日系人グループがコロンビア・プロジェクトづくりに参加する計画があると述べていることからわかる(18)。
鹿地が会ったという藤井は当時、中国の「OSSに参加していた」と語っている(19)。その頃、OWIで昆明にいたヨネダは、藤井の滞在の情報を耳にしてOSS本部を訪ねたが、MOの秘密工作従事のため面会を拒否されたらしい。藤井と同行したのは、カミカワ、タモツ、キタ、コウチであった(20)。鹿地のいうように七人だったとすれば、残りの二人の名は不明である。いずれにせよ、名前のわかった五人はいずれもマリーゴールドのグループであったので、放送番組づくりの経験がなかった。
五 アップル・プロジェクト−−延安でのOSS工作と野坂参三
(1) 在朝鮮アメリカ陸軍CICとの接触
なぜ野坂か 鹿地亘は一九五一年に在日アメリカ陸軍G-2(参謀第2部)直属のキャノン機関に拉致・監禁され、スパイ活動を強制された、いわゆる“鹿地事件”でも有名である。しかし戦前戦後を通じ、日本共産党を国際的、国内的に指導した野坂参三に比べると脇役でしかない。
野坂は慶応大学理財科を卒業後、労働運動に入り、一九二二年に日本共産党創立に参加。翌年から検挙と仮出獄をくり返す。一九三一年、妻と非合法でソ連に入り、コミンテルンで活躍した。その後の履歴は後の供述を参考にされたい。だが、この野坂参三が第二次大戦期に、OSS、OWI、国務省など中国派遣のアメリカ機関の多様な人物と接触を重ね、鹿地と同様にブラック・プロパガンダでもOSSと協力関係を結んでいたことは、あまり知られていない。
そこで戦後、彼が中国から帰国の途次、ソウルで接触した在朝鮮米陸軍CICの資料を手始めに、彼とOSS、とくにブラック・ラジオとの関係を含む全容を明らかにしておきたい。
野坂の手紙 野坂参三は一九四五年十二月十九日付で、滞在先の北朝鮮の平壌から、ソウル駐屯アメリカ軍司令官ホッジに次のような英文の手紙(資料T)を書いた(21)。
<資料T>
親愛なるJ・R・ホッジ将軍
突然、乱雑な英文でお手紙を差し上げる失礼をお許し下さい。
私は日本人で、政治亡命者です。私は華北で日本人民解放連盟や日本工農学校を組織し、日本の侵略に反対し、民主日本を樹立する闘いを展開してきました。私は日本共産党中央委員会の元委員です。昨年夏に延安を訪ねてきたフォーマン、スタイン、エプスタイン氏などの外国特派員は、私の中国での活動について書いております。昨年七月に延安でアメリカ軍事視察団が設立されて以来、日本軍国主義者への心理戦争について、その視察団とずっと関係をもち、日本軍や日本国内の情勢についての情報や材料を提供してきました。視察団の全員がおそらく私を知っておりましょう。とくにアメリカ大使館二等書記官のジョン・エマーソン氏は昨年十〜十二月に延安に滞在し、私に密着した活動をしていました。日本への心理戦争に従事していたアメリカのスタッフの人びととも懇意にしてきました。これらの事実の証拠をお見せするため、エマーソン氏の名刺やサンフランシスコのOWI日本部門主任のジョン・フィールド氏が私にあてた手紙のコピーを私の簡略な履歴書とともに同封させていただきます。(私は昨年夏に延安に滞在した朝鮮語の理解できる海軍大尉を存じていますが、残念ながら彼の名前を失念してしまいました。その方は現在朝鮮にいるかもしれません。)
私と森、山田、梅田の三人の日本人は日本人民解放連盟(J・P・E・L)の指導者ですが、アメリカ軍事視察団にお願いし、延安のアメリカ当局の許可を得て、他の乗客とアメリカ軍飛行機で延安をたち、モンゴルの張家口南部のある町に今年九月上旬に着きました。そこから張家口へ行き、張家口からは満洲経由で今月十三日に朝鮮の平壌に着きました。ところがここで得たさまざまの情報から、南朝鮮での日本人の旅行は朝鮮人の反日活動のため現在非常に危険であり、朝鮮と日本との海上交通機関もないことを知りました。そのため、三十八度線からソウル、釜山を経て日本に安全に帰国するには、将軍の特別のご好意に甘えて旅行許可をいただき、私どもの安全と旅行の便宜を図っていただくしかないということになりました。私たちは朝鮮の友人の援助で三十八度線までは行くことができます。将軍が私たちの願いをお聞きくださり、ご援助をいただければ幸甚です。
私たちが延安をたつ前に、私はエマーソン氏が東京に行かれることをアメリカ将校から聞きました。もしそうなら、氏は東京のアメリカ当局にかけあって私たちの問題の解決に奔走してくれましょう。
私たちは日本に帰国すれば、今までのように日本の軍国主義の絶滅、日本の民主主義の擁立、太平洋の恒久平和のためにあらゆる努力をする所存です。そして延安でそうしたように、日本のアメリカ当局と協力し、私たちの共同の目的のために協力を惜しまぬつもりです。
中国にはJ・P・E・Lのメンバーが約一千人います。彼らも満洲―朝鮮を経て、日本への帰国の途にあります。約三百人の第一集団が一カ月半か二カ月以内に平壌に到着するでしょう。彼らは日本軍国主義に反対し、民主主義を求めて積極的に働いた闘士であります。私は彼らの帰国についても、貴官のご援助をお願いいたします。(しかしこの件と、できるだけ早く当地を離れたいというわれわれ四人の件とは切り離してご検討ください。)
私は平壌の朝鮮共産党組織局書記の金日成氏の所で、この手紙への貴官のご返事を待ちたいと存じます。ソウル共産党総書記の朴憲永氏あてにご返事をお送りいただければ、朴氏が金氏を経由して私に渡してくれる手筈となっております。好意あるご返事を期待しつつ 敬具
岡野 進(野坂 鉄)
追伸
私が延安をたつ前に、延安のアリヨシ准尉を通じアメリカ当局の援助を得たい旨のお願いをエマーソン氏に書きました。しかし氏の返事はまだ受け取っていません。おそらくコミュニケーションの状況が悪いためと思います。
延安ニュースによれば、東京発の日本のラジオ放送は今夜、岡野と彼のグループが朝鮮に到着したなどと伝えました。これはアメリカ当局が私たちの旅に関心をもっていることを示しています。
この手紙が末尾にあるソウル共産党総書記の朴憲永によって無事届けられたことは、四十五年十二月二十七日付のアメリカ陸軍CIC(対敵諜報部隊)諜報担当のニスト大佐から在朝鮮アメリカ陸軍G-2参謀次長あての文書(22)と同日の電文(23)から確認できる。そしてこの大佐は、あらゆる努力を傾注して、岡野が南朝鮮を通過する際、彼との接触を試みると述べている。当時、CICには野坂の情報はほとんどなかったようである。手紙の内容、手紙の届け人などからして、野坂が諜報機関としては軽視できない「大物」との認識だけはできた。そこでCICは八方手を尽くして、彼にまつわる全情報を彼のソウル到着前に集めようとした。東京でマッカーサーの顧問をしていたエマーソンにもその手紙のコピーを送り、彼からも野坂情報を得ようとしたと思われる。
野坂の供述 岡野をソウルで尋問したのは、CICの第二二四支隊であった。四六年一月一日に彼は三十八度線を越え、同日に列車でソウルに到着した。その直後に彼は身元を証明するもの六点、活動歴、延安からソウルまでの帰国日程、今後の予定、政治目標と問題点などをCICに提供した。一月三日付のCICの「野坂参三別名岡野進」の「情報概要」という報告書(資料U)は次のようになっている(24)。
<資料U>
野坂参三別名岡野進、年齢五十三歳
住所 華北山西省延安
身元証明
一 本人とバレット大佐の写真。大佐は延安軍事視察団の元団長で、現在、西安の陸軍班長と思われる。
二 マクキャラン・フィッシャー OWI中国支局長。
三 ジョン・K・エマーソン アメリカ国務省中国駐在大使館二等書記官の名刺。彼はCBIのアメリカ軍の顧問。
四 クロムリー空挺部隊少佐の名刺。彼はアメリカ陸軍戦闘隊の隊長。
五 複数のアメリカ特派員の写真。
六 延安の日本工農学校の写真。
活動歴
一〜十(省略)
十一 一九三五年 モスクワの共産党会議に出席。「コミンテルン」の常任幹部会員に選出される。
十二 一九三六年 コミンテルンの地下指導者となる。日本共産党との接触を試みるが失敗した(工作員の注意書−−これを語るとき、野坂は逃げ腰で、神経質となり、正確な場所や活動を供述しようとしなかった。彼は妻にもこの時期のことは話したことがないと語った)。
十三 一九三八〜三九年 モスクワで共産党の仕事を継続。日本との接触なし。
十四 一九四〇年 地下の共産党指導者として華北へ行く。三年間北京、天津など華北の都市を旅行。中共八路軍の朱徳将軍といつも接触。
十五 延安に落ち着き、共産党の日本問題研究調査班と工農学校を組織。
十六 一九四四年六月 アメリカ特派員たちが来て、情報と助言を求めて岡野と接触。後に中国問題で本を書いたフォーマン氏も情報のため彼と接触。彼がかかわった別の仕事は以下のものである。
A クロムリー少佐に戦闘情報を提供。
B OWIのために日本のラジオ放送を傍受し、分析。
C アメリカ民間外交経済派遣団に情報を提供。
帰国日程
四五年九月八日 アメリカ軍司令官の承認を得て、アメリカ軍輸送機で延安を出発。
九月八日 霊邸着。
九月九日 徒歩と自動車で霊邸発。
九月十四日 張家口着。
九月二十一日 張家口発。
九月二十二日 長春着、日本行き飛行機提供をソ連に一カ月間求める。
十二月十二日 列車で瀋陽発。
十二月十四日 平壌着。
十二月三十一日 トラックで平壌発、三十八度線へ向う。
四六年一月一日 徒歩で三十八度線を越え、アメリカ軍に迎えられ、十一時開城着。十六時四十五分、列車でソウルへ向う。
今後の予定
東京に向い、共産党指導者の徳田球一、志賀義雄と接触する。社会党指導者の松岡や鈴木文治とも会う。
彼の今後の政治目標
一 日本の民主化
二 大企業の国営化
三 民主原理に基づく憲法改正
四 あらゆる勢力の糾合
五 ポツダム宣言の実行
六 生活状態の改善
七 四つの自由の達成
八 現在の日本支配者の辞任
彼の政治目標達成への予想される障害
一 社会主義、自由主義指導者による拒否
二 人民説得に要する時間の長さ
三 現在不明な連合軍の政策
四 軍部の若い将校、判事、内務省の役人などの抵抗運動
五 神風特攻隊や武勇隊のような組織による地下運動やテロ
北朝鮮の状態
彼は提供できるほどの情報がない。
四六年一月十日付の文書で、岡野を尋問したガイスマー少佐は、そのリポートをCICの第二二四支隊長になるべく早くまとめるつもりだと伝えている(25)。つまり一月三日付の「情報概要」以外の尋問結果が一月十日以降にまとめられたはずである。だが、アメリカ国立公文書館にはそれに相当するものが見当らない。四六年五月二十三日付の東京のCICが野坂の帰国日程をまとめたものがあるにはある(26)。しかしそれは一月十二日に福岡、一月十三日に東京に着いたといったソウル以降の記録が新しいだけである。釜山から福岡までに同船した者には森健、山田一郎、梅田照文のほかに佐藤タケオという人物がおり、さらに野坂よりも数日前に釜山から福岡に着いた岡田文吉が、彼と東京まで同行したとある。
以上、資料T・Uなど十点ほどが、アメリカ側が一九四五年から四六年にかけて作成し、その後公開し、筆者が一九九六年にアメリカ国立公文書館で入手した野坂の帰国関係の資料の全てである。野坂のアメリカ陸軍CIC、G-2文書は二つのボックスの二十二のフォルダーに膨大な量が保存されているが、四十七年以降のものに延安・帰国関係では新しい記述はない。
回想記で野坂が回避したこと 野坂が帰国後出した回想記によると、一九四〇年三月にモスクワ訪問からの周恩来の帰国に同行し、モスクワから中国共産党の拠点延安を訪ねた。それ以来、一九四五年九月までの四年半も延安に滞在したことになる。しかし資料Uでは、一九四〇年に華北に行ったとあって、延安訪問のことは出ていないが、活動歴の第十四・十五項の供述にあるように、華北到着後三年間は、八路軍のルートで北京など華北の前線や日本占領地などを極秘に訪問し、一九四三年に延安に落ち着いたとの新事実が出ている(27)。一方、一九九二年以降、ソ連共産党文書、国家保安委員会文書、さらには日本人民解放連盟同行者発言などによって明らかとなった延安からの帰国途中でのモスクワ訪問の事実が、アメリカ側に隠されているし、アメリカ側も全く掌握していないことも明白である。
和田春樹『歴史としての野坂参三』は資料T・Uに関係する野坂の動きを、「帰国前のソ連行き」としてかなりのスペースを割いて記述、分析している(28)。エマーソン文書を通じて、資料Tの存在や内容の概要が示唆されている。しかし手紙の内容の記載はない。ともかく同書によれば、彼のモスクワ訪問後のソ連共産党の対応は、彼をソ連のエージェントやスパイに仕立てることではなく、徳田球一よりも信頼できる彼を日本共産党内部で盛り立て、彼を通じて日本共産党の指導を行うことをねらっているものだという。野坂自身はモスクワ訪問をその時点でマスコミなどに伝え、公然化しようとしたが、ソ連がアメリカとの関係で、発表を抑えたらしい。というのは、モスクワ訪問がアメリカ側にわかれば、彼を使った戦後日本への工作が奏功しない恐れをいだいたからとされる。もしソ連の意向や思惑への配慮がなければ、彼は四五年九月二十二日から三カ月近くも長春、瀋陽などに滞在したといったウソの供述をCICにしなかったはずである。
荒木義修『占領期における共産主義運動』は野坂の朝鮮半島通過の模様を、主として野坂自身の回想記などに依拠してまとめている(29)。資料Uでは三十八度線をアメリカ軍の誘導で越えて、ソウルにその日のうちに到着したとあるが、同書にある野坂の回想記では境界線で一泊したと述べている。
しかしこの違いにはさしたる意味はなかろう。むしろ重要なのは、野坂がソウルでアメリカ軍に抑留されたものの、氏名、年齢、帰国目的など、「型どおりの取り調べ」を受けたと、戦後日本でまとめた回想記ではさらりとしか述べていない点である。ところが資料Uから見るかぎり、またその前後のアメリカ軍とくにCIC資料から判断するかぎり、野坂はかなり執拗な尋問をアメリカ軍側から受け、それに対してかなり丁寧に答えていることに注意せねばならない。とくに延安で接触したアメリカ軍事視察団いわゆるディキシー・ミッション関係者の具体的な名前と彼らとの協力関係を供述したり、一九三六年でのアメリカの滞在を示唆したり、華北到着後から延安定着までの三年間は八路軍支配地域を視察したことなど、彼が生前ほとんど語らなかった事実を明らかにしている。しかも供述した相手機関がCICというアメリカ陸軍の諜報機関である。尋問者はその機関の少佐であり、その尋問室には別の隊員が同席して鋭い目を光らせていた。つまりCICは彼の滞在中に今までの足跡と背後関係、そして日本での行動予定を彼自身の口から引き出そうと積極的に対応したことがわかる。
野坂ほどの経験と能力のある人物なら、尋問の際、CICの姿勢や意図を明確に理解したはずである。そしてその尋問光景を回想したとき、彼がCICの尋問に協力的であったことは自身で認識していたはずである。しかしCICへの具体的な供述内容についてはむろんのこと、CICの名前が、彼の回想記などからは意図的に排除されていたと見るのが妥当であろう。
(2) 延安でのOSSブラック・ラジオ設立への協力
OSSラジオ主任、延安へ ところで野坂とOSSの協力関係が、本書で扱ったブラック・ラジオでも見られたことはたしかである。実際、野坂の南朝鮮通過の要請を受けたホッジ司令官〓下のCICは、延安で「岡野がラジオ局の設立や日本への諜報工作員の派遣についてOSSへの支援を買って出た」ことを報告書にまとめている(30)。
証拠は他にもある。昆明を拠点としたブラック・ラジオのコロンビア・プロジェクト主任だったオーチンクロス中尉は、一九四五年六月四日付の報告書で、彼とモルウッド副主任、そしてヤング技術アドバイザーの三人が延安に行き、共産主義者と協定して、ブラック・ラジオ局を設立する予定であり、中国語と日本語が話せ、書くことのできる人材を得る予定であると述べた。日本語の要員を野坂の率いる日本人民解放連盟の日本兵捕虜に求めるとの明記はないが、昆明でのケースがそのまま延安にあてはまることは確実である。OSSの延安でのラジオ活動が一部すでに動き出し、また野坂ら解放連盟との協定が具体化しつつあることも示唆している(31)。コロンビア・プロジェクトの日本軍むけ放送局が鹿地亘と日本兵捕虜の協力で開局間際まで来たのに自信を得たOSSは、華北でも野坂らの協力でラジオ局を設置しようと動き出したことがわかる。
ところが資料Tには、国務省のエマーソン(図38)、OWIのフィールド、コージ・アリヨシ(日系二世)などの名が、資料Uには、エマーソンの他、ディキシー・ミッション団長のバレット大佐、OWIのフィッシャーとアメリカ空挺部隊少佐のクロムリーの名があがっている。毛沢東ら中共要人に歓迎されたのはエマーソンだけではなかった。ミッション参加者全員が歓待された。野坂は、そのアメリカ人たちから盛んな接触を受けたことをCICに示したかったのだろう。ここに出たクロムリーは本籍はOSSであったが、空軍に出向していたので、野坂はOSS将校と認識していなかったと思われるし、在朝鮮のCICに空挺部隊少佐との肩書きを書いても間違いではなかった。
アップル・プロジェクト ともかく野坂はディキシー・ミッションの延安到着以来、OSSの将校との接触を深めていた。彼はミッション第一陣のコリングとスティールという二人のOSS大尉に対し、四四年八月二十二日に満洲、朝鮮、さらには日本への工作員派遣を申し出た。ミッション派遣には、蒋介石ばかりかアメリカ大使館や軍部の一部からも強い反対があった。毛沢東に利するとの懸念が反対論の根拠であった。そこで陸海軍、国務省、OWI、OSSなどの各機関は団長の統制下に行動し、共産党に利用させないとの内部協定ができていた。ともかくこのだしぬけの提案にびっくりした両人は、団長を通じてのみ重慶に電報を送るべしとのミッション内部での取り決めを破り、「原文暗号即時破棄、コピー禁止」と付言した秘密電報を重慶OSSのホール大佐に送った。その際、このプロジェクト名にアップルというコードネームをつけた(32)。かねてOSSは華中、華南に比べて弱い華北、満洲への工作員の潜入を図っていたが、なかなか思うような成果があがらなかった。ディキシー・ミッションへのOSSの参加目的の一つは、中共支配地域を媒介したこれら日本軍支配地域への浸透にあった。OSSは朝鮮さらには日本本土への潜入にかんしては、日本軍の防諜障壁が堅くて厚いため絶望視していた。野坂の指揮下にある数百名の日本兵捕虜とその組織日本人民解放連盟の日本軍への反戦プロパガンダ活動への関心、評価は、OSSでは当然高かった。野坂の組織こそ、華北のみならず中国全体、さらには日本本土でのOSSの第五列になると期待され、それを知ってか知らでか、野坂がOSSのミッションに積極提案をしたのだから、二人の将校が小躍りするのは無理もなかった。
このアップル・プロジェクトはその後、終戦まで継続的にOSS内部で真剣に議論されている。当初、重慶のOSSでは、この潜入に必要な資金は四十万ドルと試算し、巨費はかかるが、よいギャンブルであると評価している(33)。ラジオ局設立の際には、ラジオ施設とラジオ技術者を延安に送ると述べた。また一年後の四五年七月の資料は、野坂とOSSとの話し合いがかなり具体化していることを示している(34)。次は日本本土潜入工作の可能性をOSSで分析した箇所である。
日本へ工作員を潜入させるという岡野進の提案がOSS内部で受け入れられるとなれば、それに参加する少数者は短期間に集中的な訓練を実施して、なるべく早く派遣されるべきである。日本への工作員の潜入は岡野のグループが決めたルートと隠蔽工作によってなされるだろうし、成功する可能性も高い。その際、サワダが日本から中国に密入国した際に使った協力者たちを活用することになろう。工作員が日本に潜入すれば、共産党の地下組織との接触が図られ、彼らの保護を得て、諜報システムが展開することになろう。潜入計画の初期の諜報活動は、共産党グループが潜行している特定の地域、工場、施設のみを対象とするだろう。権力者による日本人民への支配は強固なので、諜報活動の範囲の広がりは遅滞し、困難であろう。活動は空襲による混乱や人びとの疎開といった支配機構の弱体化を利用して展開されねばならない。そうすればしだいに、工作員は山東半島のOSSの受信所に無線で送信することができるようになろう。ともかく華北から日本への工作員の派遣が危険をともなうことは明らかである。日本本土の情報はひどく不足している。一方、共産党は健在であるため、この工作は危険を冒しても決行すべき段階に来ている。
このような計画がOSSと野坂との間で延安において練られたわけである。彼は日本共産党の日本での潜在勢力の強さを、OSSにやや過大にアピールした。しかし説得力があったのは、ここに出るサワダなる共産党員の日本から延安への到着であった。このサワダは岡田文吉である。岡田は一九三九年、網走刑務所出獄後、徳田球一らの指令で、朝鮮、満洲、華北を経て、一九四三年夏、延安にたどりついた。彼は徳田に任務を与えられ、本土から延安にきた唯一の共産主義運動経験者であったし、野坂の指示を受けて、一九四五年春に帰国の途についた(35)。
この日本潜入工作のアップル・プロジェクトにはブラック・ラジオが連動していたこと、つまりOSSのMO活動であったことは、華中、華南で展開された先のコロンビア・プロジェクトから見ても明らかである。
なお、OSSは野坂の組織した華北全域の日本人民解放連盟の巨大・細密な組織図(図39)を作成した(36)。この組織図によって、連盟と中国共産党、八路軍、新四軍との関係、朝鮮独立同盟などとの関係も判明する。OSSはこの組織図を使って、華北への工作を進展させることをねらっていたわけである。ただし作成年月日は戦後の一九四六年であり、その時点ではOSSの作戦部門は実質的には解散して陸軍省に吸収されていたのであったが、OSSの執念と周到な準備があったからこそこの図を完成し得たといえる。これほど大規模で精緻な図は、現在でも作成されていない。
六 語りにくい諜報機関やブラック・ラジオとの関係
ここでは、第三〜五章に出た主要な日本人あるいは日系人が、生前になぜアメリカの謀略機関とのブラック・プロパガンダでのかかわり合いを語りたがらなかったかを総括しておきたい。
彼らはOSSが暴力的手段をも駆使する謀略機関であり、そのMO活動や、ブラック・プロパガンダはその一手段であることを認識していた。しかし、これだけが沈黙を強いた原因ではなかった。
野坂の場合 延安から日本への帰国途中における野坂参三のモスクワ訪問は、アメリカの諜報機関の資料では、陸軍ではなく、OSSのものに次のようにわずかに記載されているだけである(37)。
岡野進は日本の共産主義者であるが、延安で盛んに活動した後、日本への帰国途上で秘かにモスクワを訪問した。彼は日本滞在を終えた後、一九四五年十二月中旬に再びモスクワに旅立つ予定と報じられている。彼は延安に戻り、そこで活動を続ける計画をしていた。
しかし野坂のモスクワ訪問は、その他のOSS資料には見当らない。おそらくこの資料はアメリカ情報機関から注目されたり、評価されることはなく、埋れてしまい、アメリカのどの機関もモスクワ訪問を把握していなかったと考えられる。あるいはここには四五年十二月以前での日本滞在、つまり日本への帰国を示す記述があるため、信憑性が低いと他の機関から見られたのかもしれない。
ともかく彼のモスクワ訪問の事実は先述のように、一九九二年以降のソ連共産党文書や国家保安委員会文書の公開によって、秘密ではなくなった。野坂はモスクワでソ連共産党や諜報機関幹部らに会って、帰国後の共産党活動の方針を協議し、指示や資金を受けていたことが明らかとなった。
野坂がアメリカに対し日本への帰国協力要請を行う意向をソ連に示し、またソ連訪問を公然化する考えもあったことは先に紹介した(38)。また資料Tの追伸にあるように、延安を出発する前に、OWIのアリヨシを通じ帰国へのアメリカ軍の協力をエマーソンに依頼する手紙を出していた。つまり野坂からの手紙を受け取ったエマーソンが公表しさえすれば、彼の帰国は、アメリカ軍にも日本のマスコミにも周知となることを見通していた。彼はエマーソンあての手紙をすでに延安出発前に出したことを、ソ連当局に言いそびれたのである。
野坂には中国共産党、ソ連に加えて、アメリカの後ろだてを得れば、戦後の日本で日本共産党のみならず政界全体を主導できる地位に就けるとの計算があったにちがいない。彼は延安で、アメリカの国務省、陸海軍、OWI、OSS、さらにはメディアのアメリカ特派員らの相次ぐ取材攻勢や協力の要請を受けていた。彼らが野坂の戦局分析の鋭さと行動力に高い評価を与えていたことを、彼自身が知っていた。彼は帰国後の日本でも、アメリカの各機関から歓迎されると予想していた。しかし占領期の実権を握るマッカーサーのGHQとの接触は初めてであった。したがってホッジへの協力要請の手紙は、エマーソンへのそれと同様に、占領下日本でのGHQはじめアメリカとの関係強化の契機にしたいとの戦略上の配慮があった。なぜなら朝鮮通過はアメリカ軍の協力を得なくても、安全だったからである。彼はソウルでのアメリカ軍との接触は表敬的で、CICによる尋問は儀礼的なものと考え、延安のときと同様に積極的に協力しようとしたにちがいない。
ところがCICの尋問は、思いのほか彼の行動の核心をつく厳しいものであった。また、日本に凱旋帰国はしたものの、冷戦の進行で、秘かに期待していたGHQからの彼への支援はなかった。エマーソンも延安のときのような友好的な態度を示さなかった。それどころか彼が第二の指導者となった日共は、しばらくしてGHQの弾圧の対象にさえなった。したがって彼はソウルでのCICとの接触を、帰国後の政界とくにGHQ工作に活用できなかった。またGHQと日共との関係悪化で、ついにその接触の詳細を語ることはなかったのである。ましてや延安でのOSSとの協力関係は公言すべきものではなかった。OSSは解散したものの、一九四七年にはCIAとして復活し、反共の諜報機関として日本でも徐々に暗躍しはじめたからである。
ジョー・コイデの場合 野坂はソウルでのCICの訊問に対し、一九三六年頃のアメリカ滞在中の行動は妻にも語らなかった秘密だ、と苦しそうに供述している。当時、彼のアメリカ西海岸での工作に協力したのが、サイパン・ブラック・ラジオを立ち上げた日系人プロジェクトの中心人物、ジョー・コイデであった。コイデは自伝『ある在米日本人の記録』をまとめた際、野坂との関係を語らなかった(39)。さらに、コイデはOSS要員以前の収容所時代、シカゴ工場時代を対象とした同書の上巻では、登場人物は実名をあげたのに対し、下巻のOSSの「宣伝部員時代」では、次のような事情で登場人物全てを仮名とし、全体をフィクション風の記述に変えてしまった(40)。
後半は、ハート山からシカゴに出市して、満一ヵ年待機した筆者が、どのような経路でワシントン入りをし、そこで初めて知り合った数十人の日系人と、終戦までの一年間を、どのように過したかを書いたものである。
日米戦争中、米国政府の傭員となった日系人は、莫大な数にのぼる。だが、これらの人々が、具体的に、何をしたかについては、あまり知られていない。戦後二十数年の今日、こういった記録は、今や公表されていいのではなかろうか。
本書のこの部分は、内容がデリケートなため、物語風に書き下ろされた。一冊にまとめて出すと決意した時、前半と同じ形にすべきかとも考え、友人達に相談した。『事実を事実として、すべて本名でだせ』という者と、『そのままで』という二つに分かれた。結局、原形のままにした。前半と後半のつながりに円滑を欠き、よみづらい点があるとすれば、ご容赦をねがいたい。
この本のなかでコイデは、日本の再建を願う真実の番組を送っていたことを強調しているが、ソースを隠している以上、彼の活動がブラック・プロパガンダであったことはまぬかれない。また彼ほどの知性と政治的感覚のある人物なら、自分の活動の本質を十分に認識していたはずである。上巻に見られた、確かな記憶に基づく明快な分析、記述に対比して、下巻は肝心なところが抽象的、文学的な表現となっている。ただ単にアメリカ当局への配慮からそうしたとは思えない屈折した表現に接すると、晩年のコイデには、日本人として自分たちのやったことは結果的に祖国を裏切ることになったのではないか、という思いが去来していたのかもしれない。ちなみに、彼の本のタイトルは「在米日本人」となっていて、日系人とか、一世といったことばを使っていない。
坂井米夫の場合 坂井米夫はこのコイデに誘われて、グリーンズ・プロジェクトに参加し、活躍した。彼は戦後、『私の遺書』など多数の著書を出しているが、どこにもOSSとの関係を記述していない(41)。ところが、彼の残した文書のなかに、次のドノバン長官のOSS解散時における要員への通達が残っている(42)。
各位
一九四五年九月十三日
OSSに所属したみなさんは、その作戦や人員の安全性に責任を負わされてきた。みなさんの多くは本機関に雇用されたり、指名されたことによって得られる情報を口外しないとの誓約書に署名した。
みなさんは、敵国との戦争に関連した高度の機密情報を任されたが故に誓約させられた。OSSは、安全性の確保には特段の高い水準を維持してきた。みなさんがこういったかたちで任務を解かれたことは本当に喜ばしいことである。
敵の敗北にともない、この組織の活動は実質的に終了した。したがって、厳格な安全性確保への義務の多くは存在する理由がなくなった。これらの義務内容を緩和することがこのメモランダムの目的である。以下に記す戦時のOSSの活動を一般的な言葉を用いて口頭で発言することは、特別に今や公認されるようになったことをここに明らかにしておきたい。
公表許可事項
OSSの要員は敵の後方で特別な偵察活動を行い、レジスタンスやパルチザンの集団を訓練、供給し、連合国軍を効果的に支援する活動を行ってきた。わが国や海外での訓練場所、兵站基地、輸送部隊の確保は、これらの目的達成に必要であった。
諜報の分野では、とくに軍事、経済、政治、地理的なあらゆる面での敵国や敵支配地域に影響する情報の収集、分析、発表にOSSの要員は従事したといえよう。OSSの工作員は、この種の情報を得るべく、アメリカ人、外国人を問わず制服あるいは平服で敵支配地域に潜入した。T部隊は連合国軍の前衛において、連合国の目的のために軍事的、経済的に大きな価値をもつ文書の捕獲に努めた。さらにOSSの要員は、敵のために破壊的ないし諜報的活動を行う人物にかんする情報を収集し分析する任務を課せられていたといえるかもしれない。
これらの多様な機能の遂行のために、多種多様な背景をもつ市民や軍人の専門家がリクルートされたといってもさしつかえない。類似した活動に従事するアメリカや連合国の他の機関や部門とも、密接な連携を保った活動を行ってきた。
これらの活動を行うため、多数の行政職や軍務職や事務職の要員が必要であった。特別部門は、たとえば武器や設備の実験と開発、地図制作、複製、通信、心理戦争研究、写真、医療サービスに従事し、それぞれが全体のプログラムの遂行になくてはならない貢献をした。
したがって(以下に述べる制限事項以外の点について)、みなさんが自分自身のOSSでの仕事を家族や友人に今や口頭で明らかにしてもよくなったといえよう。しかしわれわれが敵に全面的な勝利を収めた事実にもかかわらず、外国政府は知らないし、あるいは外国政府に知らせるべきでない事項がかなり残っている。そのほかにも、わが国政府、連合国や勝利を早めた勇気ある仲間を当惑させたり、危険に陥らせるものがある。この関連でとくに重要なのは、作戦要員の身元は、本人自身がこの組織と関係していたことを公表しないかぎり、明かすべきではないということである。したがって、以下のことは決して言及されるべきではない。
公表禁止事項
一 以上の公表許可事項以外のOSSの全ての活動
二 前述の一般的情報を除き、OSSや他の機関のファイルに機密として指定されている全ての情報
三 たとえば秘密ないし隠蔽作戦に用いられた特殊な技術、手段、方法、要員の身元を含む全ての作戦の内容
四 連合国政府におけるOSSに相当する機関の名前、組織、機能、要員に関するあらゆる種類の言及
新聞、ラジオ、書籍、講演で発表される情報も同一の一般方針に従うことになるが、これらの場合の情報は公表の際、長官あるいは機密解除事務所(海外では、戦略諜報将校)に許可の申請を行わねばならない。
常に念頭に置いて欲しいのは、OSSが戦争機関として設立されたことである。この組織はそれ以外の使命をもつ機関ではなかったし、今もなお然りである。それは専らわれわれの敵を迅速に敗北させるためにのみ設立された。その任務が完了したわけである。
ウィリアム・J・ドノバン長官
この通達は、採用時にOSS要員全員が国家機密を漏洩しないことを誓約させられていたことを示している。だからこそ、OSSとの正式の契約書へのサインを鹿地亘は要請されたにもかかわらず渋ったのである。結局鹿地はサインを拒否した。一方坂井は、アメリカ国籍がなかった一世であったにもかかわらず、OSSのプロジェクトの要員になった際には、誓約書にサインしたはずである。この誓約の要請とドノバン通達が、彼らにOSS作戦へ参加したことを公言させなかった一因であったことは間違いない。
マリーゴールドの中心人物であった藤井周而のOSS要員としての足跡は、芳賀武やカール・ヨネダなど共産党員時代の仲間の証言から間接的にうかがい知れるだけである。芳賀や八島太郎のようにOSS体験を直截的に語る者は珍しい。
岡繁樹の場合 幸徳秋水や堺利彦ら社会主義者と親しかった一世、岡繁樹は戦前、カリフォルニア州オークランドで日系新聞を発行していたが、開戦後、ニューデリーでイギリス軍の情報部の要員になり、カール・ヨネダらOWIと協力して『軍陣新聞』やビラをつくって、対日本軍のプロパガンダ活動を行った。
アメリカから帰って見ると、何か邦人の私に対する釈然とせぬものがあった。私としては、私が戦前彼らに語った戦争の見透しがすべて正しかったし、予言も適中したのであるから、相当これに対して反響があってしかるべきだと思っていた。良い批判が得られるであろうと楽しみにしていた。しかるに何事の批判も反響も得られなかった。六十五歳の老躯に鞭打ってのこの無謀といってもよいインド行きが、日本敗戦と、それに続く日本の民主主義革命という現実に対して多少なりとも意味をもっていたと私は信じている。しかるに在留同胞の私を見る眼は冷たかった。私の言を強く否定したことのある人に会って、どうだい僕のいうことに間違いあるまい、というとその人は、君は先見の明があるよと言っただけである。
私の失望は大きかった。人々は未だ私を国賊と罵り、売国奴と蔑すむつもりなのであろうか、いいようのない憤りの感情を抑えることができなかった(43)。
岡の活動はホワイト・プロパガンダの範疇に入るものである。彼さえも自らの戦時体験をこれ以上詳しくふり返ることはなかった。
なおホワイト・プロパガンダの代表格のVOAの日本むけ放送にも、多数の日系二世が協力したことはよく知られている。かれらは戦後、その協力ぶりを誇らしげに語ってさえいる(44)。同じ放送でもブラック・ラジオの関係者は過去に触れたがらない。ホワイトとブラックの差はあるとはいえ、謀略放送である点では変りないはずである。
野坂・坂井らに共通するもの 最近、アメリカ国立公文書館で追加公開されたOSS文書のなかに、坂井がリットル中佐にあてた一九四五年八月二十日付のメモ風の手紙がある(45)。坂井はそこで日本の民主化のために、マッカーサー将軍の上陸軍に参加できるよう尽力して欲しいと中佐に懇願した。彼は日本のメディアとくに『朝日新聞』で戦前働き、同紙の副社長だった緒方竹虎情報局長と親しいこと、近衛元首相や前田多門文部大臣とも面識があること、したがって日本の反動勢力の陰謀を打破し、連合軍の勝利を実質化させるには、自分が最適な人材であることを必死に売り込んでいる。
坂井はグリーンズ・プロジェクトにおいて、ライター兼出演者としての実積にOSSから高い評価を与えられている(46)。しかもコイデによれば、坂井は終戦まもない時期にリットルら幹部に「進駐意見書」を出した。その内容の卓抜さに驚いたリットルらは、それをOSSの意見書にしようとした。彼の意見書はOSS本部に最終的には採用されなかったが、その過程で彼はサンフランシスコからワシントンに特別機で運ばれるほどの活躍をした。ところが、コイデら多くの日系人要員が派遣されたアメリカ戦略爆撃調査団からははずされてしまった。コイデによると、リットルは「人間が問題なのだ」として、坂井の参加を許さなかったという(47)。彼は思想的には「中間的」と見なされている(一二〇ページの表5参照)。特派員時代の報道が反フランコ軍に肩入れしていた「赤」というのが、人選から振りおとされた原因とコイデは推測した。しかしこれは当っていないのではないか。つまり彼の余りにも強い売り込みとか思い上がりぶりが、リットルの反発を買い、彼は排除されたのではなかろうか。
野坂のホッジへの手紙といい、坂井のリットルへの手紙といい、自己セールスに近い権力への秘かな接近は、思惑通りに事が進まなかったとき、手紙を出した当人には、恥辱や慙愧の気持が残る。後に自らの行為に対する自省の念が強まったときには、その行為の事実を秘密のままで墓に持って行こうとする。諜報機関は守秘性が高いため、自分の行動が公表されることはないとの安心感を生む。しかし野坂の場合も坂井の場合も、それらの機関は彼らのプライバシーを守ってはくれなかった。
(1) OSS, Organization of Secret Morale Operations under SACO, 1944.4.21, RG 226 Entry 139 Box 148 Folder 2008.
(2) Maochun Yu, OSS in China, Yale University Press, 1996, p.151.
(3) Gordon Auchincloss, Final Report-Black Radio, China Theater, 1945.9.11, RG 226 Entry 148 Box 59 Folder 850.
(4) 注(3)と同じ。
(5) Final “On the Air” Schedule of Canton Scripts, RG 226 Entry 148 Box 59 Folder 852.
(6) Gordon Auchincloss, Monthly Report, 1945.5.22, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.
(7) Gordon Auchincloss, Monthly Report, 1945.7.31, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.
(8) Roland E. Dulin, Morale Operations OSS, China Theater, March, 1945-August, 1945, RG 226 Entry 148 Box 1539 Folder 2008.
(9) Herbert S. Little, MO Operational History, China, 1945.11.24, RG 226 Entry 139 Box 148 Folder 2008.
(10) 鹿地亘『日本兵士の反戦活動』同成社、一九八二年、三六四〜三八二ページと巻末年表を参照。
(11) 鹿地は一九四五年三月三十日付で協定案の手稿を英文で残している(鹿地亘資料調査刊行会編『日本人民反戦同盟資料』第七巻、不二出版、一九九四年、九一ページ)。
(12) Roland E. Dulin, Kaji and Issei and Nisei and Issei Group from States, 1945.6.4, RG 226 Entry 154 Box 178 Folder 3070.
(13) Roland E. Dulin, Preliminary Meeting with Kaji, 1945.6.26, RG 226 Entry 154 Box 178 Folder 3068.
(14) Roland E. Dulin, To Commanding Officer, 1945.7.2, RG 226 Entry 154 Box 178 Folder 3068.
(15) 前掲『日本人民反戦同盟資料』第七巻、九五〜九六ページ所収のThe Agreement between OSS and Kaji Groupの鹿地訳を若干修正し、本書に掲載する。
(16) 前掲『日本兵士の反戦活動』三六五ページ。
(17) 前掲『日本兵士の反戦活動』三八二ページ。
(18) Gordon Auchincloss, Monthly Report, 1945.6.23, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.
(19) カール・ヨネダ『アメリカ情報兵士の日記』PMC出版、一九八九年、二〇二ページ。
(20) 大森実『戦後秘史4 赤旗とGHQ』講談社、一九七五年、四四ページ。
(21) Susumu Okano, Dear General J. R. Hodge, 1945.12.19, RG 319 Box 163C Folder 22-26.この手紙の概要は前掲『嵐の中の外交官』二六四ページに記されている。おそらくエマーソンはこの手紙のコピーをCICから入手していたのであろう。
(22) Cecil W. Nist, Japanese People's Emancipation League, 1945.12.27, RG 319 Box 163C Folder 22-26.
(23) CCXXIV CORPS, TFGBI88, 1945.12.27, RG 319 Box 163C Folder 22-26.
(24) CIC Detachment, Summary of Information, Subject: NOSAKA Sanzo alias OKANO Susumu, 1946.1.3, RG 319 Box 163C Folder 22-26.
(25) Alan S. Geismer, OKANO Susumu, Japanese People's Emancipation League, 1946.1.10, RG 319 Box 163C Folder 22-26.
(26) CIC Metropolitan Unit NO.80, NOZAKA Sanzo, 1946.5.23, RG 319 Box 163C Folder 22-25.
(27) 野坂は「延安の思い出」(日本共産党中央委員会編刊『野坂参三選集 戦時編』一九六二年、二三一〜二四六ページ)で、一九四〇年に延安を訪問したと述べている。ところが同地でOWIのアリヨシがまとめた「ススム オカノ(テツ ノザカ)−−小伝」によると、「岡野がソ連に過ごした期間は比較的短かった。大部分を彼は日本に近いところか日本国内にいた。彼は日本の反戦運動や前線の運動を満洲事変や支那事変の間、地下から指導した。これは岡野のもっとも収穫の多かった政治運動の時期と言えよう。一九四三年春に、岡野は延安に突然歩いて入ってきた」とある(Koji Ariyoshi, Susumu Okano(Tetsu Nosaka), A Short Biography, 1945.1.22, RG 226 Entry 148 Box 15 Folder 224)。ディキシー・ミッションに参加して以来、約半年間、アリヨシは野坂に密着して、彼の言動をアメリカ本国へ客観的に報告していた。野坂も彼に全面協力していた。したがってこの小伝は野坂の発言に基づく回想記と見てよい。一九四三年に彼が初めて延安を訪問したことは、ソウルでの供述と合致する。ジェームス・小田『スパイ野坂参三追跡』(彩流社、一九九五年、二一七ページ)によると、野坂は一九四三年七月に天津から延安入りしたとある。しかし同書は、それ以前の彼は満洲、華北で日本の特務機関と共に活動したと記している。これは、中国共産党と行動をともにしたと語っているソウル供述と矛盾している。アメリカ国立公文書館資料には、管見の限りでは、野坂が日本軍の工作員であったとの記述はまったくないし、アメリカのスパイともとれる資料もない。
(28) 和田春樹『歴史としての野坂参三』平凡社、一九九六年、一二三〜一五九ページ。
(29) 荒木義修『占領期における共産主義運動』芦書房、一九九三年、一一〇〜一一二ページ。
(30) GENERAL HEADQUARTERS UNITED STATES ARMY FORCES, PACIFIC, Office of the Chief of Counter-Intelligence, The Yenan Group of Japanese Communists, 1945.12.31, RG 319 Box 163C Folder 22-26.
(31) Gordon Auchincloss, Columbia Project-June, July & August 1945, 1945.6.4, RG 226 Entry 148 Box 58 Folder 826.
(32) Colling and Stelle, To Col. Hall Only, 1944.8.22, RG 226 Entry 148 Box 7 Folder 103.なおこのアップル・ブロジェクトについては注(2)の本の一六八〜一六九ページにも紹介されている。
(33) Colonel Robert B.Hall, To David G.Barrett for Captains Colling and Stelle, 1944.8.24, RG 226 Entry 148 Box 7 Folder 103.
(34) W. Shepardson, Kennett W. Hinks, Data for Planning Yenan Based Penetration of the “Inner Zone”, 1945.7.6, RG 226 Entry 139 Box 224 Folder 3178.
(35) 前掲『歴史としての野坂参三』一一八〜一一九ページ。
(36) War Department, Office of the Assistant Secretary of War Headquarters, Strategic Services Unit, China Theater, Memorandum, To: BH/076, 1946.6.4, RG 226 Entry 182 Box 16 Folder 95.この図はこの資料に付属したものである。組織図名は「日本解放連盟組織状況表」となっているが、本書では「日本人民解放連盟組織図」と直して表示する。また支部の人名には判読不明のものも多いので、支部長名のみ記載した。
(37) OSS, China Theater X-2 Branch, Japanese Communist Activities in Shanghai, 1946.4.25, RG 226 Entry 182A Box 11 Folder 84.
(38) 前掲『歴史としての野坂参三』一三九〜一四〇ページ。
(39) 野坂とコイデの関係は大森実『戦後秘史3 祖国革命工作』(講談社、一九七五年)のなかではじめて明らかにされた。
(40) 前掲『ある在米日本人の記録』下巻、「まえがき」二ページ。
(41) 坂井米夫『私の遺書』文芸春秋、一九七七年。
(42) William J. Donovan, All Personnel, 1945.9.13, Sakai Yoneo Collection, Special Collection-UCLA.
(43) 『文芸春秋』一九五〇年五月号。
(44) 石井清司『日本の放送をつくった男―フランク・馬場物語』毎日新聞社、一九九八年参照。
(45) Yoneo Sakai, A Memorandum to Lieutenant Colonel Little, 1945.8.20, RG 226 Entry 210 Box 142 Foldar 13.
(46) OSS, History of “Blossom” Radio, RG 226 Entry 139 Box 188 Folder 2500.
(47) 前掲『ある在米日本人の記録』下巻、三六一ページ。