日 時:7月19日(土)午後2時30分〜5時30分頃
場 所:早稲田大学・現代政治経済研究所会議室(1号館2階)
発 表 者:白山 眞理(日本カメラ博物館・JCIIライブラリー)
●「報道写真」とは何か
●内閣情報部「調乙」文書第24号「写真報道事業」(1937年10月20日) 「部外
秘扱」
対米宣伝のために新しく写真事業を興そうと考えたきっかけは?
「写真報道事業」の中の[米国―及び日本の宣伝事業]
「佯の写真」とは?
●<THE CAMERA OVERSEAS:136000000 PEOPLE SEE THIS PICTURE OF SHANGHAI'S
SOUTH STATION>(『LIFE』1937年10月4日号)
ニュース映画のための演出
「思想戦展覧会」(内閣情報部主催、1938年2月)での反論
●名取洋之助について
1931年、ドイツの週刊グラフ雑誌で報道写真家としてスタート
『ベルリーナ・イルストリールテ・ツアィツング』などで活躍
1933年にウルシュタイン社特派員として日本に拠点を移し「日本工房」を結成
ドイツのエージェントに写真を送る傍ら、写真展を開催
分裂後、「日本工房」を再建
1934年、対外文化宣伝誌『NIPPON』を創刊―財団法人国際文化振興会との関係
1936年5月頃から1937年9月初めまで、ドイツ・アメリカに外遊 『LIFE』との関係
1937年10月から、国際文化振興会嘱託として写真の宣伝及び配給に当たる
1938年6月から、陸軍の写真撮影組織「プレス・ユニオン」と配信機関「プレス・ユニオン・フォト・サービス」を担当
●木村伊兵衛について
1930年から、花王石鹸の広告写真撮影
1932年から、写真雑誌『光画』同人
1933年、名取の論ずる「報道写真」に賛同し、『光画』に関係する仲間と共に「日本工房」に参加
1934年、仲間と共に「日本工房」から脱退し、「中央工房」結成
「中央工房」内に「国際報道写真協会」を設立
1935年、国際文化振興会のストック・フォト制作開始
国際観光局の対外宣伝誌『TRAVEL IN JAPAN』に写真提供開始
1937年、初の写真集『JAPANESE SCHOOL LIFE THROUGHT THE CAMERA』(国際文化 振興会、1937年)刊行
1938年、「南京上海報道写真展」(外務省情報部後援)が全国主要都市を巡回
『写真週報』創刊号で表紙写真などを担当
●「写真報道事業」の写真収集方法
懸賞募集と『写真週報』創刊
●『写真週報』の役割
民間の写真を内閣情報部(後に写真協会)が編輯
写真報国
対外宣伝写真の蒐集というかくれた任務
「御用写真」のカモフラージュ
実績のある写真家を使う―効果のある対外宣伝写真を得る近道対内外写真宣伝の官庁代行機関として「写真協会」設立
「テーマ会議を開催し、これを契約写真家又は直属写真班員に撮影せしめ、選定の後英文にて解説文及個々の写真に説明を付し、査閲を経て初めて数百枚の頒布 印画を作り発送」
●『写真週報』の写真が海外へ配信された例
1938年6月8日号『写真週報』第17号、赤十字看護婦 表紙=土門拳による<仁と愛と>
同年11月30日号の『シュトゥットガルター・イルストリールテ』記事 表紙
●カモフラージュが関与した?
土門拳<宇垣外相の休日>(『LIFE』1938年9月5日号) 「Domon Ken」
木村との先陣争い
「Natori」とは、海外に実績のある写真通信社としての通称という認識
土門の写真作家意識
名取の怒りとは?
カモフラージュされた民間写真家や工房の活動
●写真家たちにとって、「写真報道事業」とは
写真はグラフジャーナリズムの中の「仕事」
国内には十分な場がない・・・ドイツの通信社、アメリカの『LIFE』
国際文化振興会、外務省文化事業部、鉄道省国際観光局などのマーケット
「写真報道事業」は、アメリカへの写真配信を公的に推進するもの?
・・・写真家や工房が一見民間人の立場のままで「戦時の要請」に応える仕事を行なうきっかけとなった
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