日 時:9月13日(土)
場 所:早稲田大学政治経済学部内、3号館2F、第1会議室
発 表 者:谷川建司(茨城大学助教授)
※ 注:この発表に関する詳しい内容は、今月の25日に発売となる岩波書店『文学』9・10月号に載せる予定です。ぜひご覧下さい。
1) ピクトリアル・メディア
民間検閲部(Civil Censorship Detachment = CCD)内の、プレス・映画・放送課(Press, Pictorial and Broadcasting Division = PPB)、および民間情報教育局(Civil Information and Education Section = CIE)の情報課(Information Division)ともに、マス・メディアの中で映画・演劇・紙芝居・幻燈といった視覚メディアをピクトリアル・メディアと総称し、それを専門に扱うスタッフを擁していた。
※PPB=概略的な4項目の「ピクトリアル・コード」、および細目については映画の場合は9項目の「映画コード」(試験によって採用した日本人検閲官に対する具体的な指針)を作成。
※CIE=10項目の「製作が奨励されるべき映画」、および13項目の「製作を禁止すべき映画の内容」の具体的テーマを日本の映画会社各社に提示。
→ 軍国主義・国家主義・愛国主義・反民主主義なものの禁止。加えて「仇討に関するもの」および「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましいこと、また名誉なこととしたもの」という条項があった。これにより「チャンバラ禁止」の事態
→ 最も厳しい立場に置かれ、最も徹底的に禁止された題材=「『忠臣蔵』もの」であった。
2) 「『忠臣蔵』もの」
文楽や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』、浪曲、講談等を通じてポピュラーになっていった義士銘々伝や外伝ものなど数々のヴァリエーションがある。
「『忠臣蔵』もの」は映画、演劇、講談、浪曲、とピクトリアル・メディアを含むあらゆるメディアにおいて最も人気のある作品であり続けてきた。
→ 主君浅野内匠頭長矩(あるいは塩谷判官)に対する四十七士の「封建的忠誠心」
「生命の軽視を……名誉なこととしたもの」的な要素(例、矢藤右衛門七の母)
「仇討に関するもの」これらの要素がすべて含まれている。
→ 禁止すべきもののモデルとして「『忠臣蔵』的なるもの」を想定していた可能性。
3) 『LIFE』誌の記事と『仮名手本忠臣蔵』の解禁
「歌舞伎を救った男」=フォービアン・バワーズ(Faubion Bowers)の説
→ 『LIFE』の1943年11月1日号に掲載された「"The 47 Ronin" The Most Popular Play In Japan Reveals The Bloodthirsty Character Of Our Enemy」と題した『忠臣蔵』についての特集記事をGHQの上層部スタッフが事前に読んでいたために上記の内容の条項が特に禁止項目に加えられたのではないか?
バワーズはPPB演劇検閲官として歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』解禁のために奔走。その努力により1947年11月に東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言(大序から九段目まで通し八幕)が行なわれた。
→ 厳密には、1947年1月に京都南座で、また同年2月に東京劇場でそれぞれ『仮名手本忠臣蔵』の中で八段目の「道行旅路の花聟」のみが上演されたという記録あり。ただし、11月の東京劇場での通し狂言としての興行では、11月29日に皇后・皇太后が揃って観劇する(五、六、七、九段目)という「『忠臣蔵』もの」解禁を象徴するイヴェントがあった。
→ 解禁が実現した理由として、バワーズは「現代人に対して影響力を持ち得ない古典芸能であり、保存すべきもの」という解釈を前面に掲げることでGHQ内でのコンセンサスを得ることが出来た、と証言。
→ ただし、この解禁以後も映画や地方の小規模な演劇活動など、それ以外のピクトリアル・メディアにあっては「『忠臣蔵』もの」は禁忌とされ続けた。
4) PPB「インフォメーション・スリップ」(情報回覧)
「ピクトリアル・コード」違反で不許可となったケースについての報告書の綴りである、PPB「インフォメーション・スリップ」(情報回覧)の1949年4月18日から10月10日までの約半年分を分析したところ、「『忠臣蔵』もの」に題材をとった演劇作品の上演計画が合計で25件ないしは26件(1件のみ重複の可能性あり)ある。
うち保留措置(Pending)となった一例を除いて、すべてのケースにおいて上演許可は認められず、「右翼プロパガンダ」として禁止(Suppressed)の措置が取られている。
→ この半年というのは占領終結が視野に入り、かつ検閲が実施されていた最後の半年という時期であり、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の上演解禁から一年半ないし二年経過している時期である。
→ 特に、タイトルから推察すれば単なるパロディとして上演が企画されていたと思われるケース(『喜劇高田馬場』)であっても全く同様に「右翼プロパガンダ」として禁止されている事実には注目すべき。
→ 唯一、判断が保留となっているケースは三重県での『仮名手本忠臣蔵』上演許可を求めたもの。申請者=尾上菊衛門(原資料のローマ字より表記を推察した)が尾上菊五郎家と姻戚関係にあるのかどうかは不明。PPBがその可能性、もしくはこの人物と松竹との関係を確認する必要性を感じていたために、有無を言わさずに「禁止」にしなかったという可能性も否定できない。
→ 興味深い事実=占領自体が終結に差し掛かり、PPBの検閲が廃止される直前の半年間という時期において、全国の至るところで松竹のような大興行主とは別の次元で様々なピクトリアル・メディアによる「『忠臣蔵』もの」上演の申請がなされていたという事実。
そしてそれがことごとく禁止されたという事実。
→ 「『忠臣蔵』もの」上演の申請件数の占領期間を通じての推移については不明。
5) 映画における占領終結後の『忠臣蔵』解禁
映画において占領期間中は一切「『忠臣蔵』もの」は製作されていなかったにも拘らず、占領終結と共に満を持して各社が一斉に「『忠臣蔵』もの」製作に踏み切っている。
→ 1952年1月に東宝が『元禄水滸伝』(脱落していく者たちを描く)を公開、続いて『おかる勘平』、『四十八人目の男』、『喧嘩安兵衛』を相次いで製作。東映は戦後初の本格的『忠臣蔵』ものとしての『赤穂城』とその第二部『続・赤穂城』、そして『決戦高田の馬場』を4月から7月にかけて連続公開。
1953年には東映の『赤穂城』シリーズ第三部『女間者秘聞・赤穂浪士』と新東宝の『珍説忠臣蔵』。
1954年には大映の『赤穂義士』と松竹の『忠臣蔵/花の巻・雪の巻』が公開。
→ 以後、戦後『忠臣蔵』ブームのピークとなったNHK大河ドラマ『赤穂浪士』の登場した1964年まで毎年のように各社でオールスター・キャストによる「『忠臣蔵』もの」が製作されている。
6) 民衆レヴェルにおける「『忠臣蔵』もの」への潜在的な需要
では、その民衆の支持していた「『忠臣蔵』もの」の根底にあるエッセンス―――様々なフォーマット、様々なヴァリエーションが生み出され、淘汰され、改良される中で300年の歳月を掛けて日本人の口に合うように熟成されていったそのエッセンスとは何か?
→ 事実としての赤穂事件が起きたのは1701年(江戸城松の廊下での殺傷事件)から1702年(吉良家への討ち入り)にかけて。
→ 「『忠臣蔵』もの」のルーツは討ち入りの僅か4年後に上演された近松門左衛門による最初の義士劇『兼好法師物見車』に始まる。
→ 明治になり映画という新しいメディアの登場により更なる広がりを見せ、日露戦争後には福本日南の『元禄快挙録』『元禄快挙真相録』のベストセラー化と桃中軒雲右衛門による浪曲版義士伝の一大ブームでまさに「国民的な物語」としてのポジションを確定させた。
→「『忠臣蔵』もの」のエッセンスについての解釈
※丸谷才一=カーニヴァル的な祭りの系譜に属するものと位置づけた(『忠臣蔵とは何か』)。
※佐藤忠男=47士の行動のモチヴェーションを、自分の正しさを証明するための「意地を張る」行為と定義(『忠臣蔵――意地の系譜』)。
※四方田犬彦=義士一人ひとりの葛藤や忍耐といった要素に目を向けて「そこには実現されなかった望みの崇高さと憧れのはかなさを示す心情、すなわち韓国文化における「恨」に近しいものが、きわめて繊細な形で表現されている」と解釈(「映画ジャンルとしての『忠臣蔵』」)。
※ヘンリー・D・スミス=『忠臣蔵』の根底にあるエッセンスというものがそれを受容する民衆の側の受容態度の問題に他ならないことを指摘("The Capacity of Chushingura")。
→ これらを踏まえて、発表者(谷川建司)は『文学』9月・10月合併号(9/25発売)掲載の論文において、「コミュニケーション成就のカタルシス」と定義した。
→ 占領下日本にあって表面的には猫も杓子も「デモクラシー」という呪文一色に染まり価値観の大変換が起こったように見えながらも、少なくとも奥深いところではこの「コミュニケーション成就のカタルシス」を求める民衆レヴェルの潜在的需要が存在し続けていたとすれば、それをどう理解すべきか?
7) 占領軍スタッフは「『忠臣蔵』もの」を如何なるものと理解していたか
実際のPPBの検閲を末端レヴェルで担当していたのは日本人。彼らは検閲した事例を英語の報告書にまとめることが出来るだけの高度な英語力を持つインテリ層で試験によって採用された者。彼らは昭和の歴史の中で「『忠臣蔵』もの」が辿った軌跡についても充分に知識があったはず。
→ 「『忠臣蔵』もの」は、国の戦争努力を国民に理解させ、大東亜共栄圏というアイデアを国民に納得させる上で効果的に利用された。
→ 「義士」という位置づけが日本政府によって公式になされた事実。つまり、明治元年(1868年)に京都から江戸へ入ったばかりの明治天皇が泉岳寺に勅使を差し向け、大石らに勅旨を述べている。
→ 後醍醐天皇のために高師直と戦った楠正成を天皇家が「忠臣」と位置づけ、足利家と直接繋がる唯一の家系として残っていた吉良家を断絶に追いやった大石(大星由良之助)のことを楠正成に代わって高師直(吉良上野介)を討ち果たした人物であると遇したことによる。
→ 以後、昭和に至る歴史の中で日本政府は小学校の教科書に大石を取り上げ、「『忠臣蔵』もの」への民衆の思い入れを「国家への忠誠」にすり替え、泥沼の戦争へと突き進んでいく日本国家のポジションを国民に説得する上で『忠臣蔵』の枠組みを利用した。
8) 「上海事件展覧會」告知の広告ビラ
昭和7年(1932年)の上海事件に際し、その約一ヵ月後に海軍省・陸軍省の賛助により東京日日新聞社主催により日本橋白木屋で催された「上海事件展覧會」告知の広告ビラ。
→ 『昭和忠臣蔵――江戸城内及高家ノ座敷』(上海事件に関わる国家を『仮名手本忠臣蔵』の登場人物たちになぞらえて解説した)
戦後になって占領軍に雇われた日本の知識人たちは、「『忠臣蔵』もの」の人気があまりにも民衆の間で高かったがゆえに国家の戦略に利用された、というイメージを強く持っていて、そこへ「『忠臣蔵』もの」を名指しにするような検閲指針が提示され、現場の検閲官として忠実にこれを排除し続ける方向で職務を果たしていたのではないか?
PPBでは日本人の検閲官がきちんと指針どおりに検閲を行なっているかチェックするため、ときおりわざと何らかの措置を採らなければならない事例のダミーを書類に紛れ込ませてその反応を見ていた。
→ この日本人を信用しきっていない占領軍スタッフのメンタリティは、自分たちの物差しでは理解できない日本人に対する潜在的な恐怖感、すなわち表面的には従順に従っているものの腹の底では自分たちを打ち負かしたアメリカに対する復讐の機会を狙っているのではないか、という疑念の表れではないか?
→ 一年以上に渡って人の誹りや嘲笑に耐え続け、とうとう本懐を遂げた赤穂義士たちと本質的に同じ?
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