20世紀メディア研究所    The Institute of 20th Century Media
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オフィス・山本武利
基調講演U

日  時:11月22日(土)
発 表 者:山本武利(早稲田大学教授)


中国をめぐる日中米の第2次大戦の電波戦


プロパガンダとラジオ
 第1次世界大戦にはイギリス、ドイツなどが撒く大量のビラ、ポスターが欧州戦線に氾濫した。そしてこれらの印刷メディアが大衆心理を動かし、イギリスなど連合国の勝利の一因となった。アメリカの近代政治学やマス・コミュニケーション研究の創始者といわれるHarold D.Lasswellは総力戦の一翼を担うようになったメディアによる大衆操作現象を分析し、Propaganda Technique in the World War (1927)なる著書にまとめた。これ以降、プロパガンダなる言葉は学界で市民権を得るようになった。
 第2次大戦直前にはプロパガンダは大衆の心理や行動に影響を与えるシステマティックなコミュニケーション活動をさす言葉として政治や軍部の世界にも定着した。ドイツの敗北がイギリスの巧妙なプロパガンダ戦略にあったと見たヒットラーは政権を獲得するや、ゲッベルスをプロパガンダ相 に任命した。アメリカやイギリスはヒットラーのプロパガンダ使用を忌み嫌って、心理戦(psychological warfare)なる言葉を使うことが多かった。また日本ではプロパガンダに相当するものとして思想戦という言葉が使われていた。
 言葉がどうあれ、プロパガンダによる戦術、戦略が第2次大戦ではますます重視されてきた。前大戦にはなかったプロパガンダの強力なメディアが新登場した。それはラジオである。ラジオは1920年代初頭に娯楽用の民放局としてアメリカに登場したが、声と音で臨場感を与え、即時性の高いその機能は軍事関係者の注目するところとなった。ターゲットとされる相手国民や敵兵の戦意喪失に効果的と見なされた。戦前から各国とも周到にラジオ活用法を研究していたため、開戦とともに各前線で使用された。ラジオの送信は無断国境越えとして国際法違反の糾弾を受けることがなかったし、敵地にビラを撒く危険性を伴わなかった。問題は敵側に受信機が普及しているかどうか、聴取妨害されるかどうかということであった。日本ではラジオ利用のプロパガンダは電波戦と呼ばれた。

中国戦線でのラジオ
 第2次大戦は英米など連合国と日独伊の枢軸国の戦いであった。両陣営とも開戦前から世界に向けてプロパガンダの強力な電波を発信していた。満州を含む中国大陸も例外でなかった。いや日本軍の盧溝橋事件以降の侵略とそれに対する抗日戦の激化が世界の焦点になっていたので、中国にはBBC、VOA、モスクワ放送、ベルリン放送、さらにはラジオ・トウキョウなどの電波が降り注がれていた。
 また広大な中国内部でも、日本軍とその傀儡勢力のラジオと国民党軍、中国共産党軍のラジオ、米英軍のラジオなどが国内外のオーディエンス向けに活動していた。たとえば1940年に出された日本の支那派遣軍報道部の「支那事変と放送」というパンフレットには、中国戦線での日本軍のラジオのプロパガンダ機能を次のよう分類している。

1、 対支宣伝
 イ、対敵宣伝   蒋政権治下軍隊に対する宣伝、蒋政権治下民衆に対する宣伝皇軍占拠地域内遊撃隊に対する宣伝
 ロ、新秩序下支那民衆に対する宣伝
2、 対第三国宣伝  在支外人に対する宣伝、在外華僑及第三国人に対する宣伝
3、 対邦人放送   現地皇軍将兵に対する放送、在支邦人に対する放送日本内地に対する放送、海外在住の邦人に対する放送

 日本軍が中国内部の諸勢力を対象にきめ細かいラジオ活動を、中国内部で第2次大戦勃発以前から実施していたことがわかる。さらに中国では租界なる特殊地域があった。その代表格の上海では、日本軍の侵攻が進むにつれ、数え切れないほど乱舞していた民間ラジオ局の内、抗日的、親連合軍的なものが弾圧、排除された。しかし大戦になっても、独伊ばかりでなくソ連など中立側のラジオも存続が許されていた。しかし日本側はそれらの放送内容に目を光らせていた。1944年2月の「上海特別市警察月報」はソ連系のXRVN局の英語ニュースを停止させたと記載している。おそらく英語に隠れて、密かに反日的な放送を行っていたからであろう。
 このように中国のプロパガンダはラジオを見ただけでも、多様性と重層性を持っていた。日本軍側も抗日側もターゲットを絞り込んだプロパガンダを安価、安全に行える魅力的なメディアとして認識し、それを活用しようとした。先のパンフによると、当時日本軍は次のラジオ局を持っていた。  

1、大上海放送局  XOJB  中波    華語、英語による占領地域支那民衆、外人並びに内地邦人向け
          XOJB  短波    華語による敵地民衆、敵軍向けに使用並びに奥地敵軍、支那民衆
          XQHA  中波    日本語による皇軍将兵向け放送
2、南京放送局   XOJP  中波    華語、日語による占領地区内外の支那民衆、皇軍邦人、内地邦人向け
3、漢口放送局   XOJD(第一)  
中波   華語、日語、英語による占領地区内外民衆、外邦人、皇軍、内地向け
(第二)       華語により敵地民衆、敵軍向けに使用
4、杭州放送局   XOJF  中波    華語による付近民衆向け
5、特殊放送局   なし   中波    特殊電波発射用

満州でのラジオ利用による宣撫活動
 このリストの最後にある「特殊放送局」とはなんであろうか。上海にある100ワット の小規模の出力で、コールサインはなく、周波数も記載されていない。おそらく上海司令部から前線の秘密活動、ブラック活動を支援するための暗号指令のラジオ局であった。徐州会戦で日本軍は敵陣内に5ワットの放送機を設置し、中国人捕虜に"支那軍が負けた"と繰り返し放送させ、国民党軍を追い込んだという(中山龍次『戦ふ電波』1943)。
ラジオの軍事使用はそれにとどまらなかった。空軍の爆撃を行うためのラジオ・ビーコンとしてもラジオは注目されていた。レーダー搭載のない時代の空軍機は、ラジオ電波を手がかりに出撃地と空爆地点とを往復する場合があった。
さらに先のパンフレットには「ラヂオ塔・共同聴取施設等を媒介とし、治安宣撫工作上に於ても盛んに利用せられつつあり、土地及風俗に契合した音曲・講演に依る民生の哺育が其の心気更新・宣撫達成上極めて大きな役割を果たした」とある。  
 華中や華北でのラジオを使った敵軍、敵民衆さらには占領地民衆などへの宣撫活動の事例はわからない。幸い1930年代後半から終戦まで発行された満州国国務院総務庁弘報処の『宣撫月報』がその活動を継続的に記録している。  
 五族協和を唄う満州国は民衆への宣伝、宣撫活動に力を入れていた。エリアが広大で、四方から敵のプロパガンダが流入する同地では、関東軍は早くから軍事目的にラジオネットワークの構築に努めていた。1936年開局の新京第2放送局(短波)はなんと百キロワットの巨大出力を持っていた。年々辺境の地区に届く大小のラジオ局が設置されて行った。『宣撫月報』1938年5月号にソ連国境の弘報所員は「有識者の講演会、座談会、映画(娯楽機関の少なきため)、音楽界、ラジオ、ポスター、パンフレット、新聞」が有効と延べ、「満州里に於けるラヂオは放送局の遠きと電圧の関係により、下級品にては聴取不可能にして、従ってラヂオ利用者は殆んどに日人にして、満露人の利用者1部のみなり。本市は蘇連チタに近きため、チタよりの放送鮮明に聴取出来、之れ民心収攬上当局の一考すべき事なり」と寄稿している。  
 満州国では国―省―県―村―保甲の各段階に弘報責任者を決め、それに弘報員や「宣撫官」を配置していた。また関東軍、関東局、政府、協和会、電電会社からなる弘報連絡会議が宣伝、宣撫さらにはメディア内容を指導、検閲していた。放送について言えば、連絡会議の決定に基づき放送参与会―中央放送局―地方放送局―聴取者のラインで命令、指導がトップダウンされていた。当局は各民族、各地域の聴取者に興味がいだかれる放送番組作りを指導するとともに、村、集落での共同受信施設の建設を支援した。またソ連からのラジオの聴取が不可能なように有線施設の普及を検討していた。
 弘報連絡会議では関東軍が一番発言力を持っていた。軍はラジオを通じて不満分子の台頭、五族の反乱を阻止しようとしていた。そのための武器の1つがラジオであった。したがって宣撫のためのラジオは軍事活動と有機的につながっていた。プロパガンダの理論も研究されたが、観念的なナチス理論は無視された。『宣撫月報』誌上に本土では排除された実用的な米英の理論や研究が紹介され、冒頭のラスウェルの著書も翻訳連載された(1940年に『宣伝技術と欧州大戦』として東京で出版)。治安悪化の地域に派遣された弘報員が宣伝、宣撫活動中にゲリラに射殺されることもあったが、プロパガンダ戦に勝利するための実践工作が広範囲に展開された。  

OSSのブラック・ラジオ  
 ソ連を仮想敵国とする関東軍はソ連のプロパガンダとくにモスクワ放送に神経を使っていた。しかし中国全体から見れば、蒋介石のラジオ活動の方が日本軍の脅威であった。たとえば先のパンフには、「重慶広播電台は南京失陥前使用し在った呼号XGOSを廃し、新たに南京中央電台の呼号XGOAを移用して、名実共に中央放送局たるの陣容を整え、北京・蒙古並びに西蔵語等に依り、主として中部乃至奥地向け宣伝を開始すると共に、武漢作戦中英国マルコニー会社の手に依り建造せられた三十五キロの強力なる短波送信機は武漢失陥当時に至って竣工、試験放送を開始し、日独英仏ソ等の各国語及び広東・アモイ・馬来等の地方語を用いて之等の諸地方向け放送を始むることとなった」と述べ、「各国報道陣の触手が介在し、虚報が其の儘事実に粉飾せられて国際場裡に横行し、以て間接的に列強の道義関心を触発するの結果に想到する時、デマとして強ちに捨て置かれざるの重要性を認めねばなるまい」と放送内容が外国メディアによって世界に拡散されることを警戒していた。実際、重慶ラジオは日本軍の残虐さを世界に印象付けるのに成功した。
 国民政府のラジオ施設は「援蒋」物資として米英から提供されたものだろう。アメリカ戦時情報局(OWI)は発信源を明らかにしたホワイト・ラジオの活動を行っていた。ソースを隠したり、偽ったりするラジオ活動はブラック・ラジオといわれ、アメリカでは戦略諜報局(OSS)がそれを担っていた。このOSSが中米合作社(SACO)を通じて、ビラ、新聞ラジオなどのブラック・プロパガンダ工作を行っていたが、1945年1月からSACOを離れ、独自に戦意喪失作戦MO(Morale Operation)を開始し、その一環としてブラック・ラジオを開局させた。そのラジオは華中、華南の中国人が作ったように装った中国語の放送であった。OSSのMO部隊は前線でデマを流したり、破壊・転覆活動を行う際に、ラジオを活用していたのである。OSSは鹿地亘や在米1世を使って日本軍や日本本土向けのラジオを推進していたが、終戦となった(山本武利『ブラック・ラジオ』2002年)。
 一方、延安では1944年のDexie Mission以来、OSSは岡野進(野坂参三)や反戦日本人捕虜を使ったブラック・ラジオの山東半島での開局や本土上陸時での宣撫工作を練っていたが、これも終戦で実行されなかった。
こうしてみると、第2次大戦の中国戦線では、日中米の諸勢力が新しいプロパガンダ・メディアであるラジオをたんにホワイトやブラックの電波戦線としてだけでなく、味方のレジスタントへの秘密情報や暗号の伝達、宣撫活動などさまざまな軍事目的のために駆使しようとしていたことがわかる。

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