・資料としての小野寺供述書
資料 I Japanese Wartime Intelligence Activities in Northern Europe
58ページのSSU文書(NA分類記号 RG263EntryA1−87Box4)
資料構成 I 序
II ストックホルム、ヘルシンキの武官事務所の活動と目的
III 諜報の援助と方法
1、資金
2、通信手段
3、諜報収集とセキュリティ保持の方法
IV 接触とソース
1、ポーランド人
2、フィンランド人とバルト人
3、ドイツ人
4、ハンガリー人
5、スウェーデン人
6、他の欧州駐在の日本機関との関係
V 供述した諜報のまとめ
資料 II ONODERA, Major General Makoto − Biographical Sketch of.
10ページのOSS文書(NA分類記号 RG226Entry173 Box10)
資料 I−序(全訳)
1、 日本陸軍参謀本部は長年、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトビア軍参謀本部と密接に協力して、ロシアの破壊的、諜報的活動を調べてきた。太平洋戦争開戦後、西欧連合国もその調査対象に含まれた。彼らの協力関係は訓練や教育面での参謀将校の相互交流、暗号解読などの諜報的情報の交換、平時、戦時の破壊活動の共同資金援助や計画、スパイや破壊工作員の共同訓練や方向性などであった。
2、 こうした活動を主導した人物は欧州では日本軍武官であった。平時、戦時を問わず、彼らは外国において通常の外交的任務や受入国に公認された軍事面での代表者としての仕事に責任を負うだけでなく、あらゆる種類の破壊的活動たとえばスパイや破壊工作員との直接的接触、無線通信手段の維持、無線傍受や不法な商業工作を行なってきた。スウェーデン、フィンランド、ポーランド、バルト諸国において、彼らはこうした活動を行う唯一の日本人であったし、諜報活動に限れば、海軍武官とか外務省は副次的なことしか演じなかったことはたしかである。
3、 小野寺や小野打自身がロシア諜報では専門家として長く訓練されてきた。小野寺は最初にスウェーデンに派遣されたとき、その能力しか持たなかった。しかし戦争が拡大するにつれ、彼の事務所は次第に欧州での全前線を対象とした指令を出す最重要な日本の拠点となり、諜報活動で約200万円を自由に動かせるまでになった。彼の組織は前述の協力関係に基づいて顕著な成果をあげた。ポーランド軍参謀第2部の元ドイツ班長であったリビコフスキーは彼の事務所で約3年半働いた。前のエストニア軍参謀本部第二部長で、ストックホルムで受け入れられた難民であったマーシングは、戦時中ずっと彼の主要な工作員であった。ハッラマー指揮下のフィンランド暗号解読部門はスウェーデンに亡命したとき、小野寺に資金を求め、その交換に彼らの活動の成果を彼に提供した。さらに彼はスウェーデン軍参謀本部の「*」なる人物を情報源として持っていたし、Abwehr(ドイツ国防軍防諜部)の最も成功した活動家といわれるカール・ハインツ・クレーマーと広範な諜報面で情報交換を行っていた。 *伏字
・小野寺の履歴(抄訳)―― 資料 I
1940年11月 ストックホルム陸軍武官、1941年2月5日 ロシア、フィンランドの専門家の西村敏雄大佐の後任。
参謀本部では彼を優秀なロシア専門家として欧州に派遣。第二戦線としての観察者、研究者にすぎなかったが、戦局推移の結果として活動的なセンターになる。しかしそうしたセンターとして必要なスタッフや設備を用意しないで赴任。
*情報部「在「ソ」公館以外ニ於ケル工作」B02130979900
スウェーデン政府に信任されただけであったが、ノルウェーやデンマークのも責任を持つ。
ドイツの軍事部門と関係が良かったので、ノルウェーによく行った。デンマークはドイツに閉鎖されていたが、ベルリンへ行く途中によった。
欧州での他の日本軍事機関とはあまり関係がなく、ストックホルムの日本公使館とさえも完全に独立した活動。したがって資金も別で、東京との直接交信の個人暗号を所持。
・履歴 ―― 資料 II
1912−15 仙台幼年学校
1915−17 中央幼年学校(東京)
1917−19 陸軍士官学校、ロシア語を学ぶ
1919 少尉、歩兵29連隊付
1920 陸士卒
1923 中尉、歩兵連隊中隊長
1925 陸軍士官学校予備門教師
1925 陸大受験
1927 結婚
1928 大尉、陸大卒
1930−32 陸軍幼年学校教師(千葉)。名目のみで教師活動なし。
ソ連、ドイツの軍事組織と戦略を研究。北満の視察と地誌研究
1931−33 陸軍参謀本部第U部ロシア課、ソ連の戦術と戦略の調査
1932−33 陸軍参謀学校で軍事科学の教師、高度な大演習の訓練
1933−34 ハルビンでロシアの欧州での未来軍事行動を研究したが、
ロシア語教師以外はロシア人との接触なし。
1934 少佐
1934−35 参謀本部第2部シナ課、ソ連満州国境の地誌的研究。ウラジオ、チタなどへの旅行
1935−38 リガ公使館の武官
1937 欧州の日本人使節団との接触 外国武官との接触
ソ連の研究、ラトビア、エストニアの参謀から豊富な情報入手
1938 参謀本部第2部員で、陸大教官を兼ねるが、教師は名目
1938−39 シナ派遣軍作戦部。中国共産党と国民党CC団の諜報
1939−1940 陸大教官、大佐
1940 スウェーデン武官
・資料 I ――資金
1941年まで 横浜正金(ドル)→ニューヨーク→ストックホルム(クローネ)
敗戦まで 横浜正金→ベルリン支店→ストックホルム銀行
管理費 諜報費
1941年 120,000 30,000
1942年 120,000 40,000
1943年 120,000 40,000
1944年 120,000 360,000
1945年 75,000 40,000
・資料 I ―― 小野寺とポーランド人のソース(訳)(p15)
小野寺自身のポーランド人との協力関係はリビコフスキーという元ポーランド参謀本部の諜報将校が軸となっていた。彼は3年半、小野寺の事務所で働いた。小野寺がストックホルムに着いたとき、彼は日本とポーランドの協力関係が確立され、機能していることを知った。1940年、小野寺の前任者の西村大佐はリビコフスキー(以前のドイツ班長で、ガノの最良の補佐役の1人)に満州国のパスポートと日本の武官事務所で秘密の職務を与える協定を結んだ。最初彼はリガの小野打の事務所にいた。後にバルト諸国へのソ連侵攻で閉鎖されたとき、彼はストックホルムへ移動した。彼がスウェーデンに到着したとき、そこで働くギルビッチとコナールという2人のポーランド人がいた。彼らはコペンハーゲンのスパイグループを管理していた。彼ら3人が留まって、独ソへの工作を行う予定になっていた。しかしギルビッチは自分の工作員の一人がスウェーデン当局によってゴーテベルグで逮捕されたため、危うくなった。そこで彼は活動の停止を余儀なくされ、1941年に英国へ行くことになった。リビコフスキーが唯一のポーランドの諜報員になった。さらに身分を隠すために、彼はフィンランドで警察に接触し、ピョートル・イワノフのいう名の偽のパスポートを得た。彼は以前から別名のミカロウスキーを使っていた。
小野寺は1944年春まで個人的な親しい関係で彼と仕事をともにし、彼を“主任”と呼んでいた。リビコフスキーは彼の事務所で雇われていたが、自分の諜報活動は完全に独立していて、自分の工作を慎重に隠していた。彼の主要な目標はいつも独ソであった。彼は西欧側の情報を小野寺になにも与えなかったし、小野寺もなにも求めなかったという。 *イワノフと夫との間で個人的なけじめ(『バルト海のほとりにて』p152)
小野寺から給与を受け、ストックホルムの彼の事務所で働きながら、リビコフスキーは北東欧州全域やロシアにいる彼の工作員ネットワークからリポートを受け取り、それを日本の外交運び人を通じロンドンへ送った。ドイツ、バルト海諸国、フィンランド、ポーランドにあった日本の事務所はこのシステムでつながっていた。戦争初期、ベルリンが最も活発な情報交換所であった。そこではポーランドの諜報部員のヤコビック・クンセウイッチが日本のパスポートを与えられ、三浦武官や石田と公使館で働いていた。ケーニヒスベルグでは日本人領事の杉原(千敏)の事務所が、リガ、ヘルシンキでは小野打の事務所が諜報活動にそれぞれ使われた。
* ハルビン学院卒業後、ハルビン特務機関に勤務。1931年以降、杉原は帝国陸軍将校であり、同時に満州国外交部の官吏となった。この2重の身分は、彼がハルビンで情報活動をするのに絶好。ロシア語を駆使した有能な諜報員(芳地孝之『ハルビン学院と満州国』141p)
* 対ソ情報収集は、執拗に継続することはいうまでもないが、杉原が育成している情報網を、一時的にせよ中断することは遺憾である。早くケーニッヒスベルグ総領事館を開設して、杉原の情報活動ができるように(来栖ベルリン大使 1940・11・2、渡辺勝正『杉原千畝の悲劇』111p)
リビコフスキーに報告するポーランド人のネットワークはビィウィストク(ポーランド)とミンスク、スモレンスク(ロシア)にあり、前者は長い間、ソ連へのポーランド諜報活動のセンターになっていた。後者はワルシャワの満州国総領事の保護下にあり、日本公使館が閉鎖となっても、1942年初期まで開いていた。ケーニヒスベルグの杉原の事務所はリトアニアのカウナスのポーランド抵抗運動のメンバーと接触する工作員の本部になった。
リビコフスキーはフィンランドに二つのソースを持っていた。ザバはヘルシンキのポーランド公使館で働く新聞記者であったが、ロシアの工作員から情報を得ていた。もう一人のポーホーネンはフィンランドの諜報機関にいた。エストニアのナルバには2人のポーランド人の工作員がいた。また東方ロシアのウラルや南方ロシアのコーカサスには一団がいた。リビコフスキーはストックホルムからこの集団へのコミュニケーション手段を確立できなかったので、工作員の名前のリストをのせた組織説明書が東京へ送られた。小野寺はこの情報が東京で使われたかどうかは知らないが、その集団との関係はペルシャやトルコの日本人武官がつけたと思っている。そして今村将軍(アンカラ)が当時その統括責任者であったという。
1941年8月、シコロフスキー将軍のロンドン政府が最初にモスクワに公使館を開いたとき、一人のポーランド諜報将校がかれらに加わった。彼は小野寺がロンドンに行ったとき、ポーランドの外交運び屋を使ってロンドンへ情報を送ってきた。このソースはポーランド暗号のロシアによる解読によって不可能となった1942年まですばらしい情報を届けていた。
・資料 I ―― 小野寺とエストニア人のソース(抄訳)
リガ武官時代 1936−1938。1938年 エストニア軍にペイウス湖の高速船購入代金1万6千マルク提供―ソ連往復の工作促進のため(24ページ)
最も親しいエストニアの協力者 エリスチアン中佐 ロシア内(レニングラード、モスクワ、ボルガ、東シベリア)にいるエストニア人にスパイネットワーク構築。マーシングに引き継がれる。
戦中にエストニア、ラトビアの参謀部は解体、小野寺の知己はスウェーデン、フィンランド、ドイツなどに分散。小野寺は彼らの家族に資金、物資の援助。この方法で他の武官などよりも有益な情報を得る。
小野寺の最も緊密で最良の協力者はマーシング大佐であった(25ページ)。ミンスク陸軍学校出身でツァーの軍隊の元将校。第1次大戦で大尉。小野寺のリガ時代はエストニアの諜報部主任。ソ連進行直前にストックホルムのエストニア武官。ソ連へのエストニアスパイを指揮。41年ドイツに参加。エストニア前線でAbwehrのために働く。その間ずっと小野打と日本外交便で小野寺」に連絡。42年小野寺の示唆でドイツ、フィンランドとの関係を絶ち、文民としてストックホルムに帰ったが、実際は彼の主要な独立した協力者。
彼が不在のとき、家族に1千から1500クローネの援助を毎月行なう。ストックホルムからエストニア、ラトビア、レニングラード、モスクワの工作員に指示。彼らはほとんどエストニア人。あらゆる階層にいたが、共産党メンバーもいた。ソ連船乗組員もいた。
アンチドイツだが、ドイツにも多くのソースがいた。とくにストックホルムにいたドイツ人工作員カール・ハインツ・クレーマーとは親しく、相互に情報を交換。
* Japanese Intelligence Activities in Sweden,1945.8.11,RG38Oreiental Box17
スウェーデンやフィンランド軍の将校ともすばらしい関係。西側にも多数のソース。
・資料 I ―― 供述したソ連情報
○ソ連の動員計画(1941) ○ソ連の訓練計画、“スターリン・ライン”の計画と詳細(41)
○ソ連参謀のリポート
○モスクワ防衛のための貯蔵品の移動 ○スターリングラード戦略的後退(42)
○ドイツ攻勢へのソ連参謀の見積もり(42)
○ドイツ降伏後に迫る対日宣戦布告 ○極東への10師団の移動
○ソ連の技術、生産力、戦争遂行能力などの多様なリポート
北欧でのソ連軍の展開、バルト海やフィンランド前線 ○ソ連バルチック艦隊(41)(45)、ソ連海軍の活動
○ソ連飛行機、タンク、ロケット(42)
○暗号資料、暗号解読成果(参考文献の宮杉論文に掲載)
○東部戦線での刊行物分析
○バルカンでのソ連の活動 ○フィンランド参謀第2部のソ連推測
・小野寺供述書の史料価値
(意義)
○ A級戦犯の大島浩大使に比べ地位が低かったが、戦争責任の追及は恐れる必要があった。ONIやOSS資料は小野寺を欧州の日本諜報機関の実質責任者として大物視し、マークしている。彼の極秘のベアリング積み出しをONIが把握している。また彼のフィンランドからのソ連暗号書購入もONIの報告書に出ている。
*Fino-Japanese Secret Intelligence Liaison in Sweden,1945.8.13,RG226 Entry171A Box64
○ 小野打武官らに比べて比較的長期(46年3月26日から8月6日まで)拘留され、洗いざらいしゃべった感がある。とくに小野打に比べ長期にSSUの取り調べがなされている。
○ 責任追及を免責された731部隊の石井中将のように、アメリカ側に情報提供の全面協力をしている可能性がある。
○ 連合軍とくにアメリカ軍が相当の準備をして、尋問に臨んでいたため、供述に具体性がある。巻末に詳細な人名録、索引ができているほどだ。
○ 小野田夫人の著書『バルト海のほとりにて』と基本的に内容は矛盾しないが、その内容ははるかに多岐にわたり、具体的である。
○ 冷戦に備えたアメリカが小野寺の持つ対ソ諜報に期待を寄せていたし、それに懸命に答えているように見える。
(限界)
○ 北欧の日本での地位が低く、戦時中からその諜報は彼が嘆いているように参謀本部は軽視していた。現実に『大本営機密日誌』でも、小野寺、小野打ともに1回しかでてきていない。
○ 満州でのポーランド暗号将校の協力関係の証言があるが、シベリアなどの情報は少なく、独ソ戦など西部戦線のものが多い。
○ スウェーデン人中心に人名が伏字となっているのは、その後それらの人物がアメリカCIAなどへの協力者になったからであろう。
○ 本発表はその大半を占める小野寺供述に焦点をあてるため、小野打、大内供述にはほとんど触れない。暗号専門の大内供述にかんしては、宮杉論文を参照されたい。
○ 下の参考文献トップにあるレポートと対比しながら評価する必要があるが、それは次回の課題である。
参考資料
○ Japanese Intelligence Activities in Scandinavia,1945.1.30, RG263 Entry A1-87 Box4
○ 山本武利編『第2次大戦期日本の諜報機関分析』第7巻、欧州編1、柏書房、2000年
○ 小野寺百合子『バルト海のほとりにて』(復刊)共同通信社、2005年
○ 黒羽茂『日露戦争と明石工作』南窓社、1976年
○ 稲葉千晴「北極星作戦と日本−第2次大戦期の北欧における枢軸国の対ソ協力」『都市情報学研究』第6号、2001年
○ 宮杉浩泰「戦前期日本の暗号解読情報の伝達ルート」『日本歴史』2006年12月号
○ 百瀬宏『北欧現代史』山川出版社、1980年
『Intelligence』第9号・特集・戦前期日本の暗号と諜報<予定>
1、森山優 日本の暗号解読能力
2、宮杉浩泰 日本の暗号解読に関する対外協力関係
3、木村洋 日本とポーランドの暗号協力関係
4、山本武利 小野寺信の諜報活動
5、佐藤優 20世紀末期の在外公館のインテリジェンス活動
…………………………………………………………………………………………………………
◆ 占領期雑誌記事情報データベース(http://prangedb.kicx.jp/ ) のトップページが、リニューアルいたしました。内容も更新されています。
新URLへのご利用をお願いいたします。
◆ 占領期雑誌記事情報データベース(http://prangedb.kicx.jp/ )のデータの修正等を行なっております。お気付きの点、ご意見等・ご希望などを、事務局宛(Mail:[email protected])お寄せください。
|