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広告と社会 変わるもの変わらないもの

山本武利

近代史に広告はどんな地位を占めたか

 今日は、基調講演という機会を与えていただきまして、大変おこがましく思っております。私白身はずっと歴史的なことを研究しておりまして、広告に関しても広告の歴史についてずっと研究してまいりました。

 いま思い出しても大変光栄だったんですけれども、『広告の社会史』という本で1985年の日本広告学会賞をいただきました。大変ありかたいと思っております。

  今回、この基調講演をお引き受けした機会を捉えて、今までの自分の広告研究の総決算をすべき時期ではないかと考えて、荷が重いとは分かりつつも、この「広告は社会を変えたか」という大きなタイトルを掲げてみました。

  私自身は、これまで「広告の流れ」というものを特にメディアを中心に分析するという視点は貫いてきました。私の研究の出発点は、日本の新聞の読者層研究で、特に明治期の読者研究を重点的にやっていました。だんだん研究を続けていくうちに時期も広がり、また新聞読者というのは同時に消費者であり広告の受け手であるということから広告関連の資料にも目が広がっていって、広告主あるいは広告代理店などの広告関係の資料をかなり集めております。

  また広告理論というのはちょっとオーバーかも知れませんけれども、広告の研究史とか、広告の世界でその時代その時代でどういう人が注目され、どのような発言をしてきたのかというようなこともやってきました。

 今回、こういう機会を与えられたということで、改めて今までの文献を整理したり読み直してみました。

 広告は、この近代の中でそれなりの意味を持っていたと思うのですが、それが果たしてどれほど大きなウエイトを占めていたのかということになると、それは時代によって異なると思います。まあ全体的に言って、広告はまだそれほど大きな地位は占めていない、ウエイトを持ってないと判断せざるを得ないわけです。

 そこで、私は明治とか古い時代の=ほうがどちらかと言えば得意なんですけれども、明治以来の流れを一応分析してみました。その結果、既に明治初期から広告に関心を持っていた人が結構いたことが分かります。

  そういう中で、まず福沢諭吉(1835〜1901)という人は各方面において非常に大きな業績を残しているわけですが、広告史の観点から言いましても非常に地位は高かったと思っております。彼はメディア経営者と言しては「時事新報」という新聞を発刊しましたが、そこに広告を載せることが新聞の独立にとって不可欠であるとして、創業時から原価計算をして広告をある一定以上確保することが必要だと考えていました。

  次に武藤山治(1867〜1934)という人ですが、彼は慶塵義塾の出身で福沢諭吉の教え子で、福沢の勧めによる日本最初の広告代理店創案者の一人です。後に彼は、鐘淵紡績の社長として財界の大物になっていきます。

 私が非常に面白いと思っているのは岸田吟香(1833〜1905)です。彼は岸田劉生の父親なのですが、本人白身も広告人として大きな足跡を残しています。この人は広告主であると同時にコピーライターとしても仕事をしたという点が評価されると思います。

 初期のこれらの人達の特徴は全体的に国際派であり、国際的な視野が広かったということです。

 岸田吟香は中国人やアメリカ人との関係が深いし、武藤や福沢も欧米関係、特にアメリカとの関係が深かったわけです。それが次第に広告メディアや広告産業そのものが少しずつ力をつけ始めました。そしてメディアが育っていくと、次第に内向きになるというか国際派からナショナリストになっていく。あるいはそれほどでなくても、日本のことを考えると視野が日本以外には広がらないというような人が次第に力を持ってきたということが言えると思います。広告主も広告メディア経営者も日本匡内のみに市場を限定しだしたからです。

  この他、三越の経営者として有名で広告に非常に力を入れた日比翁助(1860〜1931)、電通の創業者の光永星悦郎(1866〜1945)、朝日新聞の創業者である村山龍平(1850〜1933)、この辺りの人が日本における広告の世界の基盤を形成した人であったと思っております。

 面白い存在としては広告理論家として石川天崖・’生没年不明)っていう人がいます。ちょっと聞かない名前ですけれども、この人は『東京学』(1909年刊行)という本を書いた民間の研究者ですご彼が面白いのは、広告という現象を広く捉えて百貨店とかそういうものの発展との関係を考察して、広告は社会現象を作り、流行を作っていくという辺りを論じた先駆者の一人であったと思っております。それが大正期になりますと、阪急や宝塚を創った小林一三(1873〜1957)が非常に広告:ニカを入れました。ターミナル・デパートなども彼のアイディアです。

 広告代理店という言葉を最初に使ったのは高木貞衛 (1857〜1940)です、これは萬年社の創業者ですね大鼓はアメリカを訪れて、日本では広告屋と呼ばれ蔑まれていたのに、アメリカでは広告に携わる人達が非常に学歴の高い、そしてまた立派な紳士であるということを知りました。本当は広告業を廃業しようかと思い、最後の機会だと思って渡米したところが、そういうジェントルマンに会えてそれでもう一回やってみようという気になって、萬年社の基盤を作ったといわれています。彼はクリスチャンであり、広告倫理というものも非常に重要だということを言った人であって、合理的な経営を広告業界に導入した先駆者であったと思うんです。

  メディア関係では大阪毎日新聞の社長であった本山彦一(1853〜1932)がいますね。朝日新聞を追い越せとい う路線を敷いて、新聞経営において広告と販売11重視するという経営的な合理性、合理主義を貫徹させ、メディアを育成した功労者であります。その他では、中川静 (1866〜1935)という人は神戸高商の先生だったのです が、在職中から萬年社はじめ広告業界に役に立つ、……欧米、特にアメリカの広告理論を紹介するという仕事をした人であります。この人は定年退職後は萬年社の取締役になっております。戦前については、まあこういう人達が挙げられるのではないかと思います。

 次に戦後になるとまず松下幸之助(1894〜1989)ですね。広告主として代表的な人物を挙げるとすれば、やっぱりこの人が大きいんじゃないかと思っています。彼は積極的に広告に資金を投じて、高度成長期の日本の産業構造の高度化に貢献した。あるいは家庭電化製品、特にテレビの普及に力を入れた功績があるわけです。そしてこのあたりから電通の吉田秀雄(1903〜1963)が出てきます。
  一方、メディア経営者としてはやっぱり正力松太郎 (1885〜1969)。この人の功績は非常に大きかったと思っております、正力松太郎は読売の完全な独裁者であり完全なオーナーであって、大変力がありました。しかし私は、メディア経営者として読売新聞を日本一の部数に仕立て上げた功労者というよりも、今日の日本テレビを作った人であり、日本におけるテレビ会社、民放テレビを作った点を高く評価すべきだと思っています。
  彼は、高度成長期にテレビ・コマーシャルを通じて商品情報を消費者に提供し、松下電器等が創り出す製品を消費者に浸透させるメディアを作り出した最大の功労者であると思っております。      

  この正力松太郎と松下幸之助の二人を有機的に捉え、そしてまた吉田秀雄を加えれば、この時代の日本の広告界は掴めると思っています。そういう中でガルブレイスとかパッカード(1914〜1996)とか広告の理論付けをするような学者が出てきたわけです。

広告費の増加と社会の民主化

 私が広告研究から遠ざかった一つのきっかけは、やっぱり天安門事件じゃなかったかと思います。 1988年に中国へ行って、北京、上海、広州で広告調査、消費者意識調査をやりました。今でこそ消費革命というものが中国に浸透して、誰もがもはや驚かなくなりましたが、当時、共産党が非常に強い力を持つ社会主義国家の中でテレビに広告が出ているということは、中国訪問者にとって大変新鮮な驚きでした。私はそれで吉田秀雄記念事業財団などから資金援助を受けて消費者調査をやりました。それをとりまとめて出版したところが、これが天安門事件直後だったために、当時の中国に対する冷やかな時代背景もあったのか、本にパワーがなかったのか、全然関心を呼ばず、つまり売れ行き不振で頭を抱えた記憶があります。

  まあ本が売れなかったから研究を止めたというわけではないんですが、それよりも私は私なりの仮説を立てていたわけです。それは広告が普及し、どんどん盛んになって人々の中に浸透すればイデオロギーも変革される。社会構造が民主化の方向へ進めば政治も変わる。そして社会の消費レベルも平準化していくという仮説を私なりの感覚でたてて調査をやったわけです。

  つまり中国もいずれ一党独裁を離れて、日本のような形になっていくという、ある程度戦略的な見通しを立てて分析し始めたのです。ところが天安門事件という大変ショッキングな事件があって、中国ではむしろ保守体制が強まり政治の一党独裁体制が強化されてしまった。人権は蹂躙され言論の自由はないという形をとりながら、今度は広告とか消費というものを政治的イデオロギーの捌け口として奨励した。これははっきりしているんじゃないかと思って、そのあたりから中国の広告研究に幻滅を感じてしまった。

  これが私自身が広告研究から遠ざかっていった一因ではないかと、自分で今振り返ってみるわけであります。

 私は韓国の消費者意識調査もやり、本にもまとめました。韓国は非常に民主化が進んでいきました。そういう中で東欧とかソ達もいままでの政治体髄が一挙に崩壊して、イデオロギーが脱社会主義の方向へ向かいました。日本そのものも私自身の学生時代か=ら、あるいは大学院時代からの流れをずっと見ていると広告費の増加は大体防衛費と比例していてほぼGDPの1%以内です。

  その間、広告は無駄であるとか性悪説などもありましたが、広告は着実に増え、広告費の増加とともに社会が民主化してきたことは確かでした。

  日高六部さんのような社会主義派のイデオローグも後に言っているのですが、大体1960年頃の白黒テレピ時代からカラーに変わる70年ぐらいを境に日本は完全に社会主義を論じなくなった。我々学生の頃を思い出すと、資本主義か社会主義かの論争で徹夜するという時代でした。それを思うとあの熱気が次第に若者から消えている。だんだん松下かソニーかとか、あるいはトヨタか日産か、最近だったら楽天かライプドアかと、その辺りで議論しています。今の学生の議論というのは私なんかが見ると実につまらない。

  ちょうど私が一橋大学に勤め始めた1985年頃から、就職はものすごくいいし、ユートピアが来た、史上最高の楽園が到来したと全体に消費に浮かれていた。いわゆる今で言うバブルという現象が発生して、みんな広告が上手な会社に就職する。

  広告が上手でヒットした商品を出すところへ就職するというような時代でしばらく浮かれ状態が続いていたのですが、ご存じのようにバブルの崩壊という90年代になりましてだんだん冷静になっていった。その頃からですね、94、95年まで私は接している学生を通じて分かったのですが、バプル期にはみんなやっぱり電通へ行きたがる。社会学部の場合はサービス産業が多いのですが、その中でも代理店が多くて、私の接触する学生もみんなそういうところへ行きたがっていました。

  その頃から私の関心はマーケティング・エJ-ジェンシーからミリタリー・エージェント「戦争広告代理店」゛と言ってもいいと思うんですが、そちらのほうに向いていきました。まあ政治宣伝ですね、そちらの方向へ私自身は次第に関心を移していったわけです。これはまあ意図的にじゃなくて、何となくそういうふうになっていったんです。

  ※湾岸戦争やボスニアなどで情報操作に関わったといわれるPR会社などを称してこう呼ぶ。(編集部)

広告はメディアを、消費者を、産業を社会を変えたか

 そんな中で、たまたま早稲田大学政経学部の政治学科から政治宣伝とかそういうものを担当して欲しいということがあったので、それで定年三年前に辞めて移ってきたわけです。今、自分の体験も踏まえながら広告について私なりの位置づけをやろうとしてるんです。

 レジメの二番目に書いた、「広告はメディアを変えたか」ですが、これは完全にメディアは広告の影響を受けたということが言えると思います。民放テレビがだんだん強くなっていくし、広告収入をあげられないようなメディアは消えていくということは、出版業界なんかでもはっきり言えると思います。まあこの傾向はずっと続いていると思います。

  三番目の「広告は消費者を変えたか」ということなんですけれども、これがどの程度変えたのかということは問題であります。先ほど言った1985年あたりは、広告という情報にみんな敏感で、そしてそれをあらゆる階層の人が話題にしていた。そして広告のコピーが流行語になり、あるいは流行歌になるということで消費者を大きく変えた。ブランド商品に対する志向が強まっているということは、今でもあると思うのですが、消費者をどれほど変えたのかということになると、確かに今までの節約重視から、消費は美徳であるというふうな意識は強まりましたが、しかしやっぱりバプルの崩壊がその傾向を押し止めているという気がします。

  私の関心がある明治初期から見ますと、明治初期の消費者は殆ど広告された商品は買わなかったんです。まあ岸田吟香は精リ水(せいきすい)という目薬で大広告主になりましたが、精々目薬とか煙草ぐらいがブランドとしてあった。その他は全部、明治の頃は自給自足で奥さんが家庭で全部生産していた。消費というものは一部のごく限られた世界でしか見られなかった。これが明治後期か=ら大正期にかけて経済が伸びて、中間層というか経済的に中の上の人達が消費者の仲間入りをして消費革命が起き…ました。これが底辺まで浸透したのはやはり松下イズムなどが浸透した1960年代以降であると思います。それが行き着くところまで行って一応全階層、全地城が画一的な消費者になったということはありますが、これが質的に更に上がって全階層に完全に浸透したかとなると必ずしも断言できないと思っております。

  四番目は「広告は産業を変えたか」というにことですけれども、実は私は自分でこの課題を掲げながら分からないのです。情けない話ですけれども……。広告は産業全体の中ではやはり隙間産業というか、地位としては広告業界というものは高くないと思っています。アメリカでも広告業界、代理業界について厳しい目が注がれ出していて、やっぱり広告主の力が強いという話がありますが、広告というものが産業を変えるほどのパワーはないのではないか、多少買いかぶっていた面があったんじやないかと思います。

  かつてガルプレイスが、広告による依存効果によって企業が消費を創り出すという意味で広告や広告産業の力は大きいんだということを言ったわけですが、それがどれほどのものであったかというあたりを、私白身も自分の研究史を振り返って整理する意味で考え直さなければならないと思っております。

 最後に「広告は社会を変えたか」ということなのですが、これまた偉そうなテーマですけれども……。やはり広告は社会の媒介変数というのでしょうか、独立変数というよりも企業と社会を動かす、その中間にあるような変数ではないかというふうに捉えております。

 まあ1970年代に先ほども言った脱社会主義というか、そういう=イデオロギー論争の決着が一応つきました、消費のほうが政治よりも楽しいというような傾向が強まる契機にはなったんでしょうけれども、広告そのものが主役というふうには言えないと考えています、

※本稿は日本広告学会における基調講演「広告は社会を変えたか」を編集部でとりまとめたものである。掲載に際し山本武利教授の要請にもとづき、タイトルを「広告と社会―変わるもの変わらないものに変更した、               




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