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GHQの迷走が問題をうやむやにした 責任は結局、問われなかった

1 旧体制のNHK存続の陽動作戦

  マッカーサーが日本に上陸してからまだ一ヶ月しかたっていないし、占領軍の支配体制やメディア政策もまだ定まっていない頃である。日本政府は一九四五年(昭和二十)九月二十五日、「民衆的放送機関設立ニ関スル件」という閣議了解を行った。そこには「民衆的放送」つまり民放ラジオを初認可するだけでなく、短波、中波のオールウェーブのラジオを開設し、さらに将来的にはFMやテレビの放送を実施するという壮大な構想が記されていた。爆撃で産業が壊滅的な被害を受け、消費物資が欠乏し、国民の多くが飢餓で苦しんでいるとき、各紙はこの閣議了解の記事を読者に伝えるのにテレビ構想の部分はカットせざるを得なかった。

  NHKには独自に取材する体制がなかった。ニュース取材記者が採用されたのは、戦後のことである。NHKは戦時中、政府直属の国営放送局に等しかった。したがってロボットのようなアナウンサーがマイクで同盟通信社提供ニュースを機械的に流すポーターにすぎないと見なせば、同局の戦争責任は軽かった。

  しかしラジオは政府プロパガンダを国民に浸透させ、彼らを盲目的に戦争に駆り立てる効率的なメディアであった。NHKは何よりもラジオを独占していた。さらに政府やNHK幹部に気がかりだったのは、占領軍に一番知られたメディアであったことにある。というのはラジオ・トウキョウと称したNHKの海外放送が、連合軍に露骨、刺激的なプロパガンダ言説を発信していたからである。またディスクジョッキー番組「ゼロアワー」は太平洋戦線のアメリカ軍兵士の人気番組となり、ハスキーな女性アナは「トウキョウ・ローズ」と呼ばれるほどにGIの憧れの存在になっていた。

  「民衆的放送」案はその後東海大学や東京FMを創設した当時の逓信院総裁松前重義の発想であった。彼の指示で、部下が数日かけてこの案をでっちあげ、閣議了解までこぎつけたのである。筆者の見つけたGHQ資料は、閣議了解の文書の英訳であるが、そこにはGHQ向けに一部書き換えられた文章や付帯資料がある。とくに興味深いのは、民放ラジオへの出資者のリストである。受信機メーカー二四社、新聞九社、映画三社、レコード二社、百貨店八社の他に、出版社として文藝春秋社、中央公論社、改造社、講談社、主婦の友社があがっている。

  別の資料から、これらの会社名は各社の了解を得ないで列挙したことがわかる。出版五社のうち、中央公論社と改造社は戦争末期に政府自身が横浜事件をでっち上げ、廃業に追い込んだ会社である。敗戦となるやまもなく両社に対し同じ政府筋は再建を働きかけている。しかしこの時期、両社は雑誌復刊準備中であった。ともかくこの動きを知っている松前らは両社を出資者として無断で列挙し、この「民衆的放送」案の民主的イメージを高め、GHQの意を迎えようとしたわけである。

  このリストでもう一つ注目したいのは、新聞九社の中に電報通信社(電通)があがっていながら、同盟通信社の名がないことである。NHKと並んで連合軍に悪名高かったのは、この同盟であった。アメリカの太平洋戦時期のプロパガンダ資料では、ラジオ・トウキョウと同盟以外の日本メディアの名前を見かけることはほとんどない。同盟は英語や日本語による対外無線同報(モールス符号による放送)で、連合軍をいらだたせるプロパガンダを行っていた。世界各国の機関が日本政府や日本軍の動向や方針を知る最大の情報源は同盟であった。無条件降伏を伝える日本政府のポツダム宣言受託決定も最初は同盟、次いでNHKから海外に発信された。

  この同盟は「民衆的放送」案が出る前の九月十四日に敵対的な報道を行ったとの理由で全ての活動がGHQによって中止させられた。翌日に完全な事前検閲下で活動再開が許された。松前らは同盟が近く解体されることを予知して、同盟を出資者からはずしたのであろう。そしてNHKだけは解体を免れたいとの希望でこの案をでっち上げたのである。監督官庁の逓信院にとってNHKは最大の出向先であった。というよりは同一の組織下のメディアとして位置付けていた。NHKの解体は政府の解体に等しいと見なされていた。

  したがってこの案にあるNHKの第二放送を使った民放開局は、NHKの存続を図ろうとする政府側の苦肉の策であった。GHQはNHKの戦争責任を追及し、アメリカ式の民放単独の放送体制を日本に強制することは必至であると予想した松前は、機先を制してNHKと民放の並存体制を提案した。その際ちゃっかりと二つの出版社の名前を挿入させる芸細かい演出さえ行った。民放やテレビなど当時の日本人にはなじみの薄い放送メディアを目立たせることによって、戦争責任追及を回避させる陽動作戦は奏功し、NHK単独体制の存続という目標を見事に達成させたわけである。

2 メディア各社の擦り寄り作戦

  「民衆的放送」案が出た前日、GHQは「政府から新聞を分離する件」なる指令を出した。新聞は政府から自立し、自由な活動を行えるようになった。それによって政府資金の入った同盟通信社は一か月ほどで解体され、共同通信社と時事通信社に分割されることになった。また、言論統制の総元締であった情報局は四五年十二月いっぱいで解散となった。

  情報局の解散や取締法規の撤廃によって、日本政府を介在して支配するというマッカーサーの間接統治政策は、メディアに対しては適用外となった。GHQがメディアを直接統治することとなった。これはGHQが占領当初から、メディアの役割を重視し、それをGHQの自由に操作しうるものにしておくという意図をもっていたことを示唆している。その統治はCCD(民間検閲支隊、民間検閲部)による検閲、CIE(民間情報教育局)による指導という二面からなされた。CCDの活動の根拠は、「連合国に関し虚偽又は破壊的批判をしてならぬ」といったプレスコードやラジオコードに依っていた。一方、CIEは日本の軍国主義の排除と民主化を至上命令とするGHQの情報、教育の政策、広報、啓蒙の使命をもっていた。じっくりと日本人の「頭の切替え」を図る機関であった。

  プレスコードや「政府からの新聞の分離」などの占領軍指令が出される頃から、メディアの世界での民主化が動き出した。「民衆的放送」案は政府内部からのGHQへのいち早い対応であったが、NHK以外のメディアは民間の企業である。逓信院ほどの情報はない。それでも終戦まもない八月二十三日付の“自らを罪(ママ)するの弁”という社説で、読者に戦争責任を表明してわびた『朝日新聞』が一番早く動いたメディアといえなくもない。しかし人事や組織の変革で民主化を示そうとしなかった。原爆投下の残虐性を批判した鳩山発言を掲載して受けた二日間の発禁処分をきっかけに村山長挙社長の退陣を求める声が高まり、幹部総退陣の「社内革命」となった。

  各メディア内部において、戦時中、政府や軍部のお先棒をかついでデタラメな活動を指導した資本家や経営者への責任追及の声が高まり、社内騒動が起った。もっとも騒動が深刻化し、社外からも注目された『読売新聞』の騒動(第一次争議)では当初、退陣拒否と組合幹部解雇を主張していた正力松太郎社長も、ついに四六年十二月にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監される直前、社長辞任や社内の民主化などの約束をせざるをえなくなった。全国紙の戦争責任追及と民主化の動きは地方紙にも波及した。『北海道新聞』では、四六年一月結成の従業員組合が要求した役員総辞職が三月に実現した。また『西日本新聞』でも同様な動きのあと、四五年十二月に役員総辞職となった。

  かれら新聞業界幹部には戦争責任とか社会的責任の自覚とかジャーナリストとしての矜持があったとは思えない。かれらはGHQという新しいお上の威光を恐れ、社の取りつぶしを回避せんとした。同盟の解体がかれらを震撼させた。それは戦時中にファシズムに同調したパターンと同じだった。GHQ発表のパージ(公職追放)のG項指定(言論、著作若しくは行動に依り、好戦的国家主義及び侵略の活発な主唱者たることを明らかにしたる一切の者)が、辞職騒ぎを増幅させたことも否定できない。

  しかしGHQはごく占領当初は民主化や戦争責任追及を公然と支援する言動は示さなかった。それにもかかわらず、新聞界はCIEにすり寄る敏感な動きを示した。

 たとえば『朝日新聞』では社長派の鈴木文四郎が社長書簡を持って再三CCDを訪れ、ソ連につながる反GHQ勢力が社長を追放し、経営、編集の実権を握ろうとしていることを訴えた。一方反社長派の高野信らがCIEの将校に“旧思想”の社長と“五人のギャング”が若い連中の民主化を妨害し、“戦争責任”を回避しようとしていると陳情した。

  争議中の各紙でも労使双方あるいは各派閥からのGHQ詣では見苦しいほどに盛んであったが、その際、GHQとくにCIEはどちらかに軍配をあげる様な言動は避け、双方の声に耳を傾け、彼らから情報を入手する姿勢を慎重に保っていた。しかし面会に応じる係官の身分、時間、回数などからみて、また内部のメモや議論の内容から見て、従業員や労組側に好意的であったことはたしかである。

  しばらくしてダイク局長やバーコフ・プレス課長らCIE内部の改革推進派は、戦争責任処理や民主化の抜本策は、日本のメディアによって自主的になされるとは思えないとの判断を下した。どの新聞においても、戦中の最高幹部は更迭されたものの、新たに最高幹部に抜擢された連中は、戦中にはニュース取材や報道の現場で軍部と意気投合していた中堅幹部であった。CIEの『朝日新聞』分析リポートが指摘しているように、外部のフレッシュな人材はほとんど登用されなかった。

  CIEの民主化推進派は株の従業員への分配は、編集権を戦犯色の濃い幹部から従業員に譲渡させることにつながると考えた。かれらは『読売新聞』に見られる生産管理(従業員による編集、印刷部門の支配)を他紙にも拡大したいとの希望を持っていたのであろう。実際、同紙では「組合を代表した編集局長」を称する鈴木東民が馬場恒吾社長を押しのけ紙面つくりを行った。GHQの改革派は民主化をともなわない朝日的な「社内革命」は、真の“革命”を導かないことを、当時の新聞労組幹部よりも認識していた。GHQの改革派は従業員の編集権確保のための制度的保証を求めた。GHQの手によって創業者や経営者の株を分割しないと、戦争協力者としてのかれらの近い将来での復権が予想されたからである。

  占領初期のGHQは一般紙の左旋回を容認した。社会主義、共産主義の新聞が日本から封建、天皇イデオロギーを払拭させると考えたからである。だから共産党機関紙『赤旗』の復刊を許すばかりか、その拡張に好意的であった。こんなエピソードがある。四六年三月、渋谷駅前で同紙を売っていた少女が警官に路上販売を禁止された。このような妨害は新宿その他でも頻発しているとのこと。この同紙記者からの訴えを聞いたCIS(民間諜報局)では、今後もそのようなことが起るなら伝えて欲しいと逆に要望した。

  出版界は業界団体が各社への配給権を持っていたため、業界団体の動向に大出版社といえども配慮せざるを得なかった。したがって日本出版協会の粛正委員会が出した講談社など7社への民主化の命令が実行される運びとなった。講談社では野間家の株を社員に分割して野間家の所有株を三割以下とした。この株の民主化は他の出版社や新聞社には見られないかなり徹底したものであった。全部の雑誌を廃刊せよとの命令には、社を廃業するに等しかったので従えなかったが、『現代』、『講談倶楽部』の二誌を廃刊とした。いわば出版界の財閥解体に近い改革が実行されたことになった。主婦の友社や家の光協会などではこれほど徹底はしなかったが、新聞社よりは実質的な改革が進められたといえよう。

  GHQはNHKの機構や人事の大改革を行った.さらにCCS(民間通信局)のハンナー課長の改革指示を受けて,NHKは四六年一月に放送委員会を結成し、高野岩三郎を委員長に選んだ。労働側代表に荒畑寒村、婦人代表に加藤静枝、宮本百合子を選任したように、反ファシズム勢力の放送委員会への参加は、GHQ側の強い意向であった。『アカハタ』復刊を新聞界の民主化の触媒と位置づけたのと同じ発想であった。番組編成でも従来のNHKには考えられない改革を実施した。ラジオコードの規制を受けたNHKは、CIEの手とり足とりの指導の下に、官臭プンプンのラジオ局からの変身を図った。天皇制論議をはじめ、さまざまの政治的、社会的な争点を取り上げた「放送討論会」や、戦争中の日本軍の行動を暴露した「真相はこうだ」(後の「真相箱」)なども、「戦争責任意識」を国民に浸透させる意図をもった占領初期の象徴的な番組であった。

3 GHQの方針大転換

  チャーチル英首相の「鉄のカーテン」発言のあった四六年三月あたりから米ソ対立という冷戦が開始となり、GHQの民主化にストップがかけられた。終戦後、半年間ほどメディアに進行した民主化や戦争責任追及の動きは、CIEに支援されたものであった。従業員の編集、経営への参加を推進し、株の分配、新しいメディアの創刊を促し、記者クラブの改革案などを出した。CIEにとって、第一次争議後の『読売新聞』のさまざまの活動は、他紙が見ならうべき模範であった。ところがダイク、バーコフらの幹部は更迭された、CIEの民主化推進の指導は急転回し、逆にその抑制に動きだした。

  『読売新聞』では、馬場恒吾社長が鈴木東民編集局長らの退社処分を発表した四六年六月になって、争議が再発した。第一次争議には組合を支援したCIEは、第二次争議では馬場社長を積極的に応援したため、ついに十月、鈴木らが退社し、組合側の全面敗北となった。『北海道新聞』や『西日本新聞』でも、『読売新聞』と同様に一時期、組合側が発言力を増し、第二次読売争議支援の行動などを起した。しかし両紙においても、CIEの直接介入で組合幹部が退陣に追い込まれた。日本新聞通信労働組合という各メディアの組合の連合体では、四六年十月五日に『読売新聞』争議のゼネストを打った。しかしスト参加社はNHK、『西日本新聞』など十五社にとどまり、大手新聞や共同通信社などは不参加。ゼネストは失敗した。

  経営者側にたってこれら一連の争議やストを追い込んだ立役者は、CIEのインボデン・プレス課長であった。前任のバーコフが民主化を支援したのに対し、インボデンは第二次争議以降、左翼的なメディア活動の弾圧に与した。彼は編集方針の決定は資本・経営者側に帰属するという編集権概念を各紙に受け入れさせるのに努めた。

  インボデンはGHQの権力を笠に着て横暴な支配を行った人物として、独立後の新聞界では悪名が高い。たとえば村山社長辞任後、オーナー以外で最初の社長となった『朝日新聞』の長谷部忠はインボデンから呼び出され、「朝日の共産分子」についてヒステリックな攻撃を受けたと回想している。たしかに彼は支配権を握った四十六年後半からたびたび現地に乗り込み、資本勝利、組合敗北の「逆コース」を方向づけた。

  しかし彼はトルーマン、マッカーサーの大方針を職務に忠実は中堅指揮官にすぎなかった。第二次読売争議が勃発する直前の四十六年四月から五月にかけての時期の「CIE週報」には、彼のメディア通説に反する記録が残っている。彼は日頃職務上接触する外務省の奈良靖彦広報担当などから「読売は共産主義の代弁者」であるため、用紙割当を制限し、同紙を締め上げようとする日本政府の動きを把握し、神経を尖らせていた。これに対し、彼は同紙を「超民主主義的な新聞」と見なして、悪質な政府から守るとの方針を「週報」に記載している。これは鈴木局長の編集方針を擁護する姿勢、つまり前任のバーコフ時代の方針を継承していることを示している。したがってGHQのメディア政策の転換で、四十六年六月から彼は方針を変えざるをえなくなった。彼の転換は彼にとって不本意なものであったようである。カナダ大使を経て退官した後の奈良に、筆者がインタビューしたことがあるが、彼はインボデンの悪評に首をかしげ、純朴なヤンキーで、権威主義者には見えなかったと語っていた。

  ともかくGHQによるメディアの抜本的改革は第二次読売争議を機に停止したといってよい。これ以降、既成ないし新設の業界団体がGHQによって民主化阻止の働きを積極的に担うことになった。新聞界ではインポデンの提議によって、四六年七月に日本新聞協会が設立され、その協会を媒介にしてCIEが新聞界を支配する構造が確立した。同協会では新聞倫理綱領を作成したが、その中では編集権については言及されなかった。編集権を資本、経営者側に帰属するとのインポデンの見解は、日本新聞協会ばかりか新聞業界さらにはメディア全体を有無を言わせず従わせるものとなった。これは第一次読売争議の成果とそれを推進したGHQの方針の完全な否定であったが、占領期を通じ、メディア全体に浸透して行った。

4 中途半端に終った戦後メディア改革

  常に風見鶏のようにGHQの一挙一動を注視していたメディアはGHQの大転換で狼狽させられた。公職追放令(パージ)のG項指定者は四七年八月から四八年六月まで十九回発表され、三百五十一名が公職追放となった。このうち現役の追放該当者は七十五名であった。予想よりパージ数が多かったのは、戦争責任追放という占領目的の原点をマッカーサーが忘れなかったためである。しかしメディアの民主化はこれまでであった。まもなく『読売新聞』の正力、同盟通信社元社長の古野伊之助、『朝日新聞』元副社長の緒方竹虎のようにA級戦犯容疑者だった大物も、社会復帰が認められるようになった。株式の民主化も見送られた。第一次読売争議で正力の株分配の約束も不履行となった。CIEは四七年頃まではその推移に多少とも関心を払っていたが、強制することはなかった。そして正力が巣鴨拘置所から釈放された頃には、なんの関心も示さなかった。つまり新聞界の戦争責任追及の動きは終戦直後のごく短い時期に終了し、民主化の成果も五〇年頃になるとかなり形骸化してしまったことになる。

  出版界でも新聞界と同じような軌跡をたどった。GHQの出版社に対する姿勢も新聞社と同様に変り、民主化抑制の方向が明確となった。また用紙事情も好転していった。こうして出版界でも終戦直後に追放された幹部の復帰が見られるようになった。『講談倶楽部』も復刊となった。

CIEは新興紙誌の育成にも、興味を抱かなくなった。既存紙のオルターナティブとしての新興紙の役割に期待しなくなった。四七年の購読希望調査と四八年の購読調整は、新聞購読を読者の自由選択に任せるというGHQの指導でなされたが、結果として新興紙から既存紙への読者の移動を加速した。こうした弱肉強食の市場の原則に任せるという政策で、新興紙のただでさえ脆弱だった基盤は崩壊し、大部分の新興紙が四七年末から四八年にかけ、既存紙に買収、譲渡されたり、廃刊したりした。

  事前検閲から事後検閲への移行は、GHQが大新聞をはじめとした日本のメディアの大部分がマッカーサーのプレスコードに従順で、彼の目的に献身するメディアに調教されたことを確認したためであった。検閲で処分される件数は年々減少した。有力メディアが事後検閲への移行後もGHQに覚えめでたいものにならんとかいがいしい自主規制の努力をしていた。彼らは軍事裁判の訴追を何よりも恐れていた。有力メディアは左翼的な少数派の新興紙を経営的に追いつめて廃刊に追いやったり、買いたたいたりすることで、GHQに一層協力することになった。

  読者の側もメディア側の責任回避の動きに寛容であった。というより無関心であった。読者からのメディア責任追及は占領初期の一時期、一過性であった。新しいブランドのメディアよりも古いメディアの方を市場で選択する消費者行動を年々強めるようになった。この熱しやすく冷めやすい読者の性向をメディア側は冷徹に把握し、それに巧みに対応していた。

  このようにメディアや、GHQ双方での戦争責任処理はあいまいのまま占領が終った。GHQ主導の方向へ進んだ。GHQの急激な方向転換が全てであった。

  (この小論のGHQその他関連資料の多くは山本武利『占領期メディア分析』法政大学出版局、一九九六年所収のものであるため、所蔵機関などの記載は省略した)。



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