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広告は社会を変えたか

山本武利

はじめに
 1960年の安保騒動時に入学した私の学部時代、友人との議論は“資本主義か、社会主義か”であった。各人がゼミやサークルで、アダム・スミス、ケインズ、マルクス、エンゲルスなどの学説の生かじりの知識で口角泡を飛ばしていた。それで夜もふけることが多かった。ところが1985年に一橋大学社会学部で最初にとった私のゼミ生たちの議論は“ベータか、VHSか”であった。イデオロギー論争を聞くことはついぞなかった。4半世紀での学生意識の変化に驚かされた。また学生の人気企業の上位はテレビCMでヒットしたパルコとかサントリーであった。私の学生時代にはその名も一流企業として認知されることがなかった電通はいつもベスト10に、博報堂はベスト20に入っていた。NHKや民放テレビ局も難関になっていて、それらに入社の決まった者は学生間でうらやましがられていた。


 私は「メディアは社会を変えるか」というマクロな視点からマス・メディア研究を行ってきた。広告研究においても「広告は社会を変えるか」といった問題意識から入ったし、その意識は現在も持ち続けている。それは安保世代の研究者の特色なのかもしれない。当時学生で広告を論じる者はまれであった。その中で私はパッカードが『浪費をつく出す人々』で告発する無駄な消費社会への批判、あるいはガルブレイスが『ゆたかな社会』で提起した広告主が無駄な消費を作り出す「依存効果」なる理論に惹かれて広告に興味をもった。ところがバブル期の学生は広告に強い関心を抱きながらも、それを批判的に捉える者は少なかった。彼らにとって広告性善説は所与のことであった。
ともかく大学院時代から私は大まかな仮説をつくって幅広く第1次資料を収集し、それに基づいて分析を進める実証的な手法を取ってきた。現在のイッシューを論じる際にも、なるべく歴史のなかに現在を位置づけるという姿勢をとってきた。以下の記述は過去の広告史研究から得たものである。

1、 メディアはどのように広告メディアに変ったか
 明治期全体いや大正期においても、チラシ、看板などの維新以前からの伝統的なメディアの力は依然大きかった。しかしここでは明治以降に誕生したニューメディアである新聞、雑誌や放送などのメディアのみに注目したい。


 明治初期に「大新聞」といわれた政党機関紙の経営者は広告収入に関心がなかった。広告を最初に重視したのは、福沢諭吉である。彼は一八八二年(明治一五)に『時事新報』を創刊した際、総収入の二割の広告収入がなければ経営が成り立たないと見ていた。彼は「独立不羈」という福沢テーゼ、すなわち一身が独立して、その一家が独立し、そして企業も学校も国家も全部独立しなければならないというテーゼに基づいて新聞経営を行った。広告収入は権力からの言論介入の防波堤になり、独立新聞を維持できるという考えがあった。同紙の広告担当者に広告集めのアイデアを提出させたり、欧米のメディア事情にも詳しい彼は広告を集めるために広告代理店を周辺の者に開かせたりした。また彼の門下生で、後に鐘淵紡績や『時事新報』社長となった武藤山治は、アメリカ留学後の一八八七年に日本最初ともいえる広告代理業を開いた。


 大阪で新聞経営をしていた『朝日新聞』の村山龍平や『毎日新聞』の本山彦一も広告収入を重視していた。彼らは大阪から育った広告代理店である高木貞衛経営の萬年社との取引を厚くして、目的を達成していた。『大阪朝日新聞』の全収入に占める広告収入の比率は年々増加し、日露戦争直後の一九一〇年の企業設立ブーム時には、その数字が四九・九%にまで増えている。堅調な広告収入が大正デモクラシーでの同紙の言論活動を支えていた。


 広告収入の多いメディアは販売収入も多く、専売店網を全国に拡充し、新聞市場制覇へとつき進む。『大阪朝日新聞』をみると、一九一〇年に十六万部だったものが、一九一四年には二四万部になり、第一次大戦中の一九一七年には三十一万部、戦後の一九二一年には四十四万部、一九二二年には五十六万部というように発行部数を急伸させ、一九三二年(昭和七)にはついに百五万部と大台に到達した。『大阪毎日新聞』もほぼ同じカーブを描いて部数を急増させた。また両紙の東京の系列紙の成長も目ざましかった。


 一五年戦争期に入ると、新聞界はファシズムに便乗し、軍国主義を扇動する形で部数拡張を図った。産業界の戦時統制とともに広告量は減少したため、販売収入への依存度を高めた。一九四一年の新聞事業令によって、新聞社の合併・統合が急速に展開され、ファシズムの新聞統制をより効率化させた。


 一九四五年からの占領期は消費物資と用紙の不足で、広告界は沈滞した。新聞で見ると、戦時下の統制で激減した新聞の数も、新興紙や統合紙の復刊で急速に増加した。また新しい時代への期待と適応のために、新聞情報への民衆のニーズが高まったので、新聞の部数や販売収入比率は増加した。しかし占領末期には経済復興で広告界も息を吹き返してきた。


 戦後六〇年間のメディア界の最大の動きといえば、一九五三年(昭和二八)にNHKテレビと日本テレビが開局したことである。その二年前に民放ラジオが誕生していた。広告界さらには産業界から見れば、NHKテレビよりも民放ラジオや民放テレビの開局の方が意義深かった。そして民放ラジオよりも民放テレビが広告界に与える影響が大であった。


 民放テレビの最大の開拓者、発展の功労者である『読売新聞』の正力松太郎は、戦後まもない時期からテレビ開局の構想を持っていたといわれるが、その当時、その構想の近い将来での実現を予想する者はいなかった。ところが朝鮮戦争の特需で日本経済は復興の兆しを示し、テレビ受像機を各家庭で購入する余裕が徐々に出てきた。また企業の側でも、広告費の支出によって、需要を拡大しようとする姿勢を示しだした。正力が街頭に設置した大型テレビの人気が受信機不足を補って、広告主のテレビへの支出に安心感を与えた。


 こうして広告収入に全面的に依存した民放テレビが全国的に誕生し、大都市では複数局が視聴率獲得にしのぎを削るようになるまでには、さしたる時間がかからなかった。一九五〇年年代後半になると、NHKのテレビ契約台数が年々百万単位で増加する。受信機の価格も低下した。さらに“もはや戦後ではない”といわれだした一九五六年あたりから神武景気が始まり、国民所得の増加で、テレビは街頭から家庭へと浸透する。とくに皇太子(現天皇)結婚式の行われた一九五九年には、そのテレビ中継を見るために多くの人が受信機を購入したため、NHKの契約数は四〇〇万台を超えた。


 一九五九年に急上昇へと離陸したテレビの普及率は、一九六〇年代半ばに九〇%台に乗り、六〇年代には九五%を超えた。七〇年代から正力松太郎が意欲的に取り組んできたカラーテレビ受信機も普及しだした。こうしてテレビの接触時間は一九六〇年の一時間弱から、一九六五年には二時間五二分へと三倍増となる。そしてテレビを毎日よく見る人の比率も、一九六二年には五〇%を超え、一九七〇年代前半には九〇%に近づいた。


 一九六〇年前後からの高度経済成長は、メディアをとりまく広告環境を一変させることとなった。日本の各企業の支出する広告費は、国民総生産に比例して、ほぼその一%の割合で急増した。これらの企業は積極的な広告・宣伝活動で企業規模を拡大させた。それとともに一九八〇年の広告費は一九五五年の三七倍、一九六〇年の一三倍にもなっている。これらの広告費の四分の三は、新聞、雑誌、テレビ、ラジオのメディアに占められたため、各メディアとも広告収入が飛躍的に伸びた。広告収入の急増が各メディアの経営規模を拡大したり、その機能を変化させたりした。


 とくにテレビが広告界の中心的メディアとなった。このテレビの時代は同時に広告の時代であった。テレビを中心とした広告・宣伝活動でテレビ受信機など家電製品の需要が拡大し、主婦の消費者の余暇時間を創出し、テレビの視聴時間を増加させた。それはテレビの広告メディアとしての価値を高め、広告費のテレビへの傾斜を促した。テレビは誕生後二〇年足らずの一九七五年に、明治初期から長年、広告メディアの王座にいた新聞を抜いて、最大の広告収入をあげるばかりか、年々その差を広げて行った。


 テレビは自からの周辺に既存のメディアを吸い寄せ、自からと親和するメディアには存続を許し、自からと競合せんとするメディアは抹殺するというパワーをもっていた。新聞は紙面にヴィジュアルな要素や、速報よりも解説に力点を置いて、テレビとの競争に生き残りをかけた。それよりもなによりも、テレビ番組欄を新設・拡充させて、テレビ視聴に不可欠な活字メディアとして、共存共栄を図った。ラジオはより細かな階層、地域的番組編成やパーソナル性を強調して、再生を図った。出版界でテレビ時代の申し子となったのは週刊誌であった。テレビ番組情報誌はいうに及ばす、芸能、女性、マンガ、写真などの週刊誌は民放テレビ的な情報処理やカラー・グラビア重視で新しい市場を開拓し続けた。逆にテレビを当初ライバル視し、協力をこばんだ映画会社の一部は倒産したり、経営危機に追い込まれたりした。さらに電通のように早くからテレビ広告に力を入れていた広告代理店は伸び、新聞など活字メディアに依存した萬年社のような代理店は弱まった。


 一九六〇年からの高度経済成長は、メディアことにテレビの発展に支えられた。一九六〇年代はテレビという受信機とメディアの発展に特徴づけられるテレビの時代といって過言ではない。受信機の普及は全産業の発展に寄与するばかりでなく、松下電器やソニーといった家電メーカーを世界有名ブランドにした。それらの企業はテレビを通じ大衆の欲求を喚起し、それを現実の購買行動に転換させるのに寄与した。


 テレビ時代に成長したメディアは広告メディアとして広告主や広告代理店の期待に応えた。新聞も増ページ分の大半は広告欄であったし、民放のラジオもテレビもその収入のすべてが広告収入であった。週刊誌がセグメント化を達成できたのも、その読者が購買力のある階層として広告主に評価されたためであった。メディアはその活動を通じて、読者層、視聴者層という受け手を獲得し、その受け手の購買力を広告主に売ることによって、広告収入をあげることができた。


 しかしテレビ、広告を二つの軸としたメディア環境の急激な変貌が、メディアの社会批判性を喪失させたことを見逃せない。広告主がメディアに圧力をかけたというよりは、広告メディアに変貌したメディアそのものが、生存競争の中で自ら言論性を放棄したといった方がよいだろう。テレビと広告、そして両者が煽った耐久消費財の消費は、日本の消費革命を推進させると同時に、次に述べるように若者の脱イデオロギー化、保守化を加速させた。あの六〇年の安保闘争も七〇年代の学園紛争も、この消費革命のなかに同化され、一挙に風化した。そしてテレビは情報の東京への一極集中化と上意下達性を強め、均質的な情報が氾濫する管理社会化を促進させた。

2、広告メディアは消費者を変えたか
 明治維新とともに欧米のライフ・スタイルが日本に入ってきた。天皇、皇族や維新のリーダーたちが率先して、断髪、洋服、肉食などを取り入れて、人びとに垂範することとなった。明治前期においては、社会のトップ・リーダーが和式から洋式へのライフ・スタイルの変革の担い手となった。白木屋、三越など呉服店で、洋服部が一八八〇年代後半に相次いで新設されたのは、鹿鳴館に象徴される欧化主義を煽動するリーダーたちの需要に応えるためであった。しかし明治前期に欧米式のライフ・スタイルが浸透したのは、皇族、華族、政府高官といった一握りの特権階級だけであった。


  中流以下の人びとは、江戸時代と質的に変わらぬ和風中心の質素な生活を送っていた。売薬に限らず、当時の各地の豪農の家計簿には、新聞広告欄に出る商品がほとんど見あたらない。購入する商品は売薬のほかランプ用の石油、ホヤ、灯芯、砂糖、塩、マッチなどの生活必需品であったが、これらにはブランド品が少なく、行商人や近くの商店から購入したものが多かった。その他の衣食住の商品は江戸時代と同様にほとんど自給自足であった。農村では、綿花を植え、糸をつむぎ、反物を織って、衣服に仕立てる全プロセスを自家で行う家が珍しくなかった。現金収入が少なくことも、消費生活を停滞させていた。


  知識人の家庭の購入商品では、新聞や書籍という情報商品が目ぼしいものであった。広告された商品を購入する最大の階層が富裕な都市の商人であることも、封建時代と変わりなかった。四民平等による身分性の喪失は、経済力、購買力に社会的な威信と権威を与えることになったが、社会全体の消費レベルが低く、消費の記号性も弱かったので、消費力で差違を見せつけようとする「これみよがしの消費」は富裕層でもまだ顕著とはならなかった。


  明治後期になると資本主義が確立し、商品生産も活発化して広告される商品も多様化した。売薬には新薬、化粧品にはおしろい、歯磨、石鹸、出版には雑誌と、三大広告主それぞれに有力商品が育ってきた。醤油、ビール、調味料などの食品広告も台頭した。タバコも活発な広告活動を行って、全国的に市場を開拓するのに成功した。とくに鉄道、道路、海運などの発達にともなって、明治後期には均一的な市場圏が全国的な規模で拡大しはじめた。広告主は経営規模を拡大させるに比例して、全国市場をめざすことになった。大阪系新聞を中心とした全国紙への歩みは、広告メディアを通じて全国市場を開拓せんとする大広告主の要請にも応えるものであった。さらに大都市の有力紙は読者層を中間層や一部の下層にも拡大することによって、幅広い階層の消費者を見出さんとする広告主に歓迎された。


  一八九九年に「売薬広告と民俗」という論文を書いた山形東根(本名布川孫市)は、「売薬広告の現象は一種の社会現象」(『六合雑誌』一八九九年五月号)と捉えた。売薬広告の隆盛は、売薬を求める社会の需要の高まり、すなわち社会の従属変数であると見た。ところが石川天崖は一九〇九(明治四二)年に出した『東京学』という自著の中で「営業の手引」を論じた際に、「三越デパートメントが陳列棚を麗しく飾って、人の目先を変へるといふのも、人をしてあれが欲しい、これが欲しいといふ欲望を起こさせる為である。常に同じ物であつたならば、人は目に慣れ、心に慣れて珍しいといふ事も感じなくなる。人は常に新規なる物を逐ふて喜ぶ者であるから、広告は其の希望に応じて目先を変へて、之れを新たにするといふ事が必要である」と述べている。三越の陳列棚(ショーウィンドー)は欲望を高め、流行などの社会現象を起こさせる独立変数と位置づけている。山形論文が出てから一〇年間に起きた日露戦争や社会、経済の構造変動が、石川論文を生み出したといえよう。


  明治末期、つまり一九一〇年代初頭に日本ではじめて中産階級以上に広告商品を中心に買い物を行う消費社会が成立した。広告はかれらに浸透し、かれらの消費生活に不可欠なものとして定着し始めたといってよかろう。

 新聞の広告欄には僅かに眼を通ふす主義の人が多いが、現今に於ける都市新聞の広告欄は所謂活社会の縮図で、文明進歩発達の状態及び風俗流行の有様が其儘に写されて居るから、凡ゆる商工業家は勿論、一般社会の人々も、広告欄を見脱がしてはならぬ。(笠原正樹『最新広告術』一九〇九年)

 人びとは新旧の広告メディアから流される記号、シンボルに積極的に接触したので、広告デザインが人びとの美意識を高めたり、「今日は帝劇、明日は三越」のように広告コピーが流行語となるケースもでてきたりした。すなわち広告情報がその物質的な属性を離れ、文化的な記号として自立化し始めたと言って良かろう。また一九二一年の調査によると、読まれる新聞紙面のなかで、広告欄は三面記事に次いて第二位を占め、新聞小説を上まわっている(早稲田大学広告研究会編『統計的広告研究』一九二三年)。広告の注目度や利用率が大きく伸びたことがわかる。一九一〇年代後半からの扇風機、アイロンなどの家電製品の普及も、活発な広告活動が寄与していた。


  しかしながら、消費社会と広告との相関の進展にはさまざまの阻害要因があった。「官民斉シク奢侈ヲ戒メ冗費ヲ節シ生活ノ安固ヲ図リ経済上ノ実力ヲ養ヒ進ンテ力ヲ産業ノ進暢ニ尽シ以テ国家ノ興隆ヲ致ササルヘカラス」(『官報号外』一九二三年二月二日)にみられるように、消費生活の拡大は、「国民精神」の養成のうえで、もっとも望ましくない傾向として政府当局の側から戒められた。「ぜいたく」への戒めは「当時の消費者行動がデパートの発達、広告宣伝の普及により、大量化」していたからである(南博・社会心理研究所編『大正文化』一九六五年)。「節約は美徳」という倫理観は教育を通じても浸透していたため、広告による「依存効果」の増大も阻害された。


  さらに消費社会の進展を阻害したのは、社会階層の大部分を占める労働者や小作農など底辺層の低い所得とそれにともなう消費意欲の停滞であった。新聞との接触も少ないかれらは、新聞広告とも縁遠い日常生活を送らざるをえなかった。底辺の大衆の消費社会への参入は、昭和不況や十五年戦争とともに以後いっそう困難になっていく。


  一九五六年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と述べたように、戦後経済は一九五〇年代後半から復興し、一九六〇年代になると戦前の水準を完全に抜き去ることになる。衣から食、食から住へと人びとの生活は回復し、戦前には中間層にまでしか普及しなかったアイロンなど小型の家電製品が大衆の所有物になっていく。さらに洗濯機、テレビ(白黒)、冷蔵庫という“三種の神器”は、六〇年代なかばから急速に普及し、七〇年代前半にはいずれも九〇%を超える普及率となった。


  高度成長が各階層の所得上昇をもたらしながらも、かれらの欲求水準の上昇がそれ以上であったこと、そして欲求の喚起はマス・メディアという広告メディアによってなされていた。実際、大衆は他人と競争するように消費行動をとってきた。六〇年代前半に叢生した二DKの団地は、当時の中間層の住への欲求を充足させるステイタス・シンボルであったが、そこではどこか近隣でテレビアンテナがつくと、他の人びとが負けじとテレビを購入するデモンストレーション効果の典型的な光景が見られた。


  一九六〇年代に日本で最初の大衆消費社会が誕生したといえよう。つまり消費革命が起きたのである。耐久消費財の消費で階層的な差は解消し、上層から下層まで同じような商品を購入し、使用するようになった。それらは画一的なマスプロ商品であったが、大衆は上層やアメリカの消費者と同一の商品を手に入れたことを喜び、新商品に陶酔した。人びとはせっせと勤労して得た所得を商品の購入に投じることに狂喜した。そして国民の中流意識は大衆消費社会の進展とともに急上昇するようになった。


  明治初期に皇族などに始まった欧米的ライフ・スタイルを基盤とする豊かな消費生活は、明治末期からは中流階級に浸透しはじめ、大正・昭和初期にはサラリーマン層に定着した。そして残りのブルーカラーや農民層には、一九六〇年代に深く根を下した。こうして百年をかけて日本の消費革命は達成された。それが長い革命であったかどうかはともかく、第二次大戦がなかったら、もっと短期間に達成されたことはまちがいない。

3、消費者は社会を変えたか
 安保期の反政府の代表的論客であった日高六郎教授は、1969年に東大紛争での機動隊導入に抗議して東京大学教授を辞職し、評論家となった。1970年代を通し若者のイデオロギー離れを日本の保守化、右傾化の原因として警告していた。しかし彼も1980年代になるとその流れは不可逆的とあきらめたようで、その原因を次のように冷静に分析している。

 なにが起ったか。すでに述べたように、世界が目を見張る生産力の拡大。そしてそのことの結果としての、都市農村を超えた新しい生活様式の普及。社会革命は来なかった。生活「革命」がやってきた。数々の家庭用電気製品はもちろん、農村の隅々にまで及ぶ自動車の普及ひとつをとって見ても、かつて想像もできなかったような生活の変化を、人々は経験した。


 戦争中または敗戦後の民衆の生活の困窮は、もう遠い物語となっている。栄養失調が原因で死ぬということは、当時、決して珍しいことではなかった。しかし民俗学者によれば、日本人全体が飢えからほぼ完全に解放されるのは敗戦後のことであって、江戸時代はもちろん、明治以後の近代日本でも、収穫のほとんど得られなかった年には、農村の人々の一部は文字通り飢えを経験した(中略)。


 敗戦直後と六十年代の終わりとをくらべよう。人々は生活必需品の欠乏になやむより、消費欲望にめざめる。しかし、このことは、いうまでもなく単に物質的な生活内容の変化だけを意味しない。それは、人々の心と意識の変化を意味する。(「経済主義と大衆行動」『朝日ジャーナル』一九八一年一〇月一日号)

 日本史上はじめて、飢えの苦しみや恐れから解放された上に、物質的な欲求を満たすことが、一九六〇年代の高度成長で可能となったわけである。生命的な欲求と人間的な欲求が同時達成された。とくにテレビとクルマに代表される耐久消費財は、この期の消費革命の担い手であった。実際私が大学院の無収入や助手の低収入であえいでいたとき、帰省するたびに、田舎の家族は中古車から小型新車へとクルマのランクを上げていた。3種の神器から3Cへと消費構造も高度化していた。それとともにマイホーム主義が日本人全体に浸透した。日高教授が“老いたる若者”と叫んでみても、彼らはそれらの消費財を自分のものにし、そのメカを自由に操る技を習得することにうつつを抜かしているうちに、政治的な変革を求めるイデオロギーを忘れた。若者の徹夜の論議は“資本主義か、社会主義か”から“トヨタか、ニッサンか”に変化した。


 その後、韓国や台湾での権威主義的な独裁政治体制も、所得上昇と消費革命の影響を受けて、相次いで崩壊し、民主化が大幅に前進した。それよりも資本主義国の消費革命が社会主義国家に大きな打撃を与えた。ソ連や東欧の一九八〇年代末から一九九〇年代初頭での崩壊は、西欧の高度な消費革命の影響といわれる。とくに鉄のカーテンを超えて流入するテレビのCMが、その体制に決定的な打撃を与えた。大韓航空機を爆破し逮捕された北朝鮮の金賢姫が、ソウルに連行されたとき、案内されたスーパーの商品の豊富さやネオンの華やかさに驚嘆し、自らの犯行を全面自供したらしい。


 私は一九八〇年台半ばに中国各地を回り、社会主義国にもテレビCMが氾濫していることに驚いた。そこで一九八八年に中国の北京、上海、広州で消費・広告意識調査を行った。天安門事件直後の一九八九年にその分析結果を『現代中国の消費革命―改革開放下中国市民の消費・広告意識』として公刊した。その「はじめに」で私は天安門事件の軍事弾圧に言及しながら、「本書で明らかにされた消費革命や意識の変革は、もはや後戻りのきかないものである。市民が一度味わった豊かさは、今後とも一層求められ続けられるだろう。そしてその意識は経済ばかりでなく政治の動向も左右することになろう。この意味で、消費革命は、共産党支配後の中国での最も本格的な『革命』なのである」と記した。


 私の中国調査に協力してくれた院生は、中国の国民所得がバングラディッシュ並みであることを当時慨嘆していた。ところが中国はバブル崩壊でのた打ち回る日本をよそ目に、一九九〇年代に驚異的な経済成長を遂げ、国民所得でも日本を指呼の間に入れるまでに急成長した。その消費革命は大都市では日本レベルに到達した。そのスピードぶりは私の予測をはるかに超えた。しかし広告で勢い付いた消費革命が政治革命につながるとの私の仮説は中国では実証されていない。
ともかく社会に対する影響という点で見ると、広告はプロパガンダに比べて遅効である。広告が社会を変えるには、


1)メディアが広告メディアに変る
2)広告メディアが読者、視聴者を消費者に変える
3)消費者が政治意識、社会意識を変える


という3つの段階を踏まねばならないからである。だから広告はボクシングのブロウのような効果を社会に及ぼす。それに対し、プロパガンダはターゲットの意識とタイミング的に適合すれば、ボクシングのストレートかアッパーカットのような即効性を持つ。しかし広告はひとたび効果を持つと、かなりの持続性がある。それに対し、プロパガンダは短期に影響が消えやすい。


  しかし広告はメディアを使って説得的コミュニケーションを行い、人々の意識を変えようとする点ではプロパガンダと共通している。広告は経済的コミュニケーションであるが、そこには受け手を操作せんとするイデオロギーや神話が挿入されているので、政治的コミュニケーションであるプロパガンダと似ている。しかも日本のように政治と経済が絡み合って密接不可分な社会では、広告とプロパガンダの識別が困難である。特に戦前や占領期ではそうであった。したがって社会と広告の相関を分析するには、プロパガンダにも注視しなければならないことになる。


  私の研究には広告とプロパガンダの双方が視野に入っているといっても、いずれの研究も底は浅い。これからはそれぞれの分野ばかりでなく、相互の関係を歴史的に実証して行きたいと考えている。




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